「なぜ、お前は帰ってきたんだ!」

中村が生還したことを知った第一復員省から、すぐに新たな通知が届いた。

「戦死の届けを取り消すために、直ちに復員省へ出頭するように……。そんな呼び出しの文面でした」

死亡届の提出によって、中村のこの国での“籍”は消失していたのだ。

その後、「死亡通知取り消し、と記されたはがき一枚が届きました。命懸けで戦ってきて何とか生還した命に対し、たったはがき一枚のやりとりでした」

あまりにも人として血の通わない“お役所仕事”に、中村はあきれたが、もう怒る気力も失っていたという。

「私が通っていた地元の小学校の先生は教会の牧師さんでもあったのですが、帰還した私の顔を見ると、いきなりこう言ったのです」

「なぜ、お前は帰ってきたんだ!」と。

戦犯者を見るような冷たい目だったという。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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戦場へ送り出されるときは、みんなが「万歳、万歳」と英雄のように称えていたが、命を懸けて戦い、生き抜いた若者たちを、終戦後、この国は温かく迎え入れようとはしなかったのだ。

「命からがら帰国してみると、この国はあまりにも変わり果てていた……」

故郷の自分のことを幼いころからよく知る者でさえ、「よくぞ生きて戻ってきてくれた」とは言ってくれず、「なぜ帰ってきたのか」が、その答えだったのだ。

中村だけではない。

取材した多くの帰還兵たちは、皆同じような冷たい対応をされたと証言している。

見ず知らずの人ではない。

人を教え導くことが仕事である自分の学校の恩師、教育者でも、こんな手のひらを返したような姿へと変貌していたのだから。

「この国は、戦争で負けてあまりにも多くのものを失ってしまったのか」と中村はやるせない気持ちになったという。

その後、中村は特攻や戦争体験について、「もう話すことはよそう」、そう決めたという。

しばらく地元・福島で過ごしていた。

伯父を頼って司法保護団体で1~2年ほど働いていたこともある。

しばらく荒んだ気持ちにもさいなまれたが、元来、中村の性格は陽気で快活。持ち前のバイタリティーがあふれ出てきた。

「人生のやり直しだ。それなら、もう一度、この国のために働こう」

そう思い立った中村は、警察官を目指し、試験を受けることにした。

東京都の警視庁警察官採用試験を受験。見事、試験を突破した中村は重爆撃機「呑龍」の操縦士から、警視庁の警察官として生まれ変わり、第二の人生を歩み始めることになった。

機動隊員に抜擢された中村は、その後も一貫して機動隊畑を歩む。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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1972(昭和47)年、長野県軽井沢で起きた連合赤軍による「あさま山荘事件」の現場へも、機動隊員として警視庁から応援で駆け付けた。

「警察官として32年間。定年まで勤めましたよ」

日本にいる家族、国民の命を護ろうと、フィリピンで戦った爆撃機「呑龍」の操縦士は、戦後も、屈強な警視庁の機動隊員として、日々、国民の命と国の平和を護るために、生涯を捧げたのだった。

文/戸津井 康之

『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』 (光文社新書)
戸津井 康之 (著)
『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』 (光文社新書)
2025/7/16
1,144円(税込)
264ページ
ISBN: 978-4334106959

何のために命を懸け、いかに生きたのか 
〝体当たり〟の真実に迫る 

◎内容 

命を懸けて大空を飛んだ 
4人の証言から「特攻」の真実に迫る――。 


この書のテーマは「特攻」である。 
「特攻」という言葉を現代の日本人で知らない者はいないだろう。
だが、実は、「その言葉には決まった定義がなく、説明もあいまいで 
その概念は定かではない」ということを知る日本人は少ないのではないか。
戦後80年の間、その定義を、その後に生まれた日本人たちは、 
それぞれが勝手に判断し決めつけてきた。
それが、「かつて特攻が行われたという史実」から、
年月が経つほどに日本人の目を背けさせてきた理由ではないか? 
(「はじめに」より)  

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