“体当たり”という名の特攻
日本の戦史の記録では、12月14日の中村たち「呑龍」の出撃は「菊水隊」による特攻と記録されている。
だが、中村は「それは真実とは少し違うのではないか」と言う。
中村は、改めて、その日の上官たちからの命令を頭のなかで反芻してみた。
確かに、出撃直前の命令で召集がかかった際、戦隊長から、「この攻撃隊は特別攻撃隊『菊水隊』と命名せらる」とは伝えられた。
だが、中村は「その後すぐに丸山隊長から受けた訓示」を忘れなかった。
「『各機、確実な方法で敵艦を撃沈せよ』。丸山隊長はそう言い、『体当たりで沈めろ』とは一言も言ってはいないのです」
この命令を確認したうえで、中村は出撃直前、4人の搭乗員に伝えた作戦を考え出したのだ。
「爆弾を投下し、全弾打ち尽くして、なお、敵艦が沈まぬ場合は体当たりする」というあの作戦だ。
戦場の最前線にいた中村たち搭乗員の特攻に対する認識と、今、語り伝えられている特攻に対する認識とに強い違和感を覚える、と中村は言う。
「特攻隊の存在について、当時の私たちには事前にその知識はなかったので、ただの体当たりだととらえていました。爆弾を抱えて直接、体当たりしなくても、弾尽き矢折れ、どうすることもできなくなれば、敵の陣地へ突っ込んで自爆する。なにも特別攻撃隊などと呼ばなくても、兵士の死に方としては、それが当たり前でしたから」
少尉に特進
1945(昭和20)年8月15日。
オーストラリアの捕虜収容所で、中村は戦争が終わったことを知る。
それから、さらに約7カ月間、収容所で過ごした後、中村は復員船に乗り、約1カ月かけて日本へ帰ってきた。
郡山の実家近くに辿り着いたときには、もう日が暮れていた。
辺りはすっかり暗くなり、灯りが漏れる実家の窓をのぞきながら、しばらく家の周囲を歩いていたら、「真かえ?」と家のなかから呼びかける母の声が聞こえてきた。
顔を見なくても分かる、その声は間違いなく懐かしい母の声だった。
「そうです。真です。只今、帰りました」。縁側の窓の外から中村が、こう答えると、勢いよく雨戸が開け放たれ、母が縁側へ飛び出してきた。
「真だあ、真だあ……」
母はうわごとのように何度も中村の名前を叫びながら、その場に座り込んでしまった。
家の奥で寝ていた父が寝床から、「真か、真なのか! お前は陸軍少尉になっているぞ!」と大きな声で叫んでいた。
父は中風で倒れ、寝込んでいたが、息子の帰還を心から待ち侘びていたのだ。
あの12月14日、中村が「菊水隊特攻」で出撃した日。
「特攻により中村真は戦死しました」
そう陸軍から、福島県の中村の自宅へ報告が届いていた。
「すぐに私が陸軍少尉に特進したことと、功四級勲六等旭日章授与が内定したことを知らせる通知が自宅へ届いていたんですよ」と中村は苦笑しながら説明してくれた。
「少尉になっているぞ」と故郷へ戻った日に父が叫んだのは、この通知のことだったのだ。
すでに実家では、中村の葬式が営まれた後だった。
「上官が私のために書いてくれた弔辞が、仏前に供えてありました。いかに自分が勇猛果敢で、優れた陸軍兵士であったかがとつとつと綴られていましたよ」と中村はいたずらっ子のように笑ってみせた。
「だって、生きているうちに自分の弔辞を読むことができるなんて、そんな人はめったにいないでしょう」