ミスターの想像を超えた松井の成長曲線

とはいえ、プロの世界は甘くない。1年目は57試合の出場で11本塁打にとどまり、周囲の期待と現実のギャップに苦しんだ。

さらに翌1994年には、当時現役最高の打者だった落合博満が中日ドラゴンズからFAで加入。松井の目の前に“完成された4番”が現れたことで、彼は3番に据えられ、学びの日々が続くことになる。

ただ、これは長嶋さんの計算もあっただろう。「背中を見て学べ」という教育方針のもと、松井は落合の打撃哲学、勝負勘、存在感を間近で体験し、自らの肥やしにしていった。

そして1996年、この年の7月、8月には月間MVPを連続受賞し、最終的には打率.314、38本塁打、99打点、OPS1.023という数字を記録。巨人が“メークドラマ”でリーグ優勝を果たす原動力となり、MVPにも輝く。

“監督”長嶋茂雄が数々の名場面を生み出した東京ドーム
“監督”長嶋茂雄が数々の名場面を生み出した東京ドーム

この時点で、松井は「4番候補」ではなく「真の4番」としての地位を確立していた。“4番1000日計画”の折り返し地点を、想像以上の速さで駆け上がっていたのである。

その後も松井は順調に成長を続ける。1997年には37本塁打・103打点、1998年には自身初の本塁打王・打点王のタイトルを獲得、1999年は初の40本塁打以上(42本塁打)を記録するなど、すでに押しも押されぬ巨人の中心選手となっていた。

しかし、それでも「4番」には定着しなかった。理由は、1997年に西武ライオンズからFAで移籍してきた清原和博や、ライバル高橋由伸の存在で、松井は再び3番に戻ることになる。それでも松井は腐らず、打撃で結果を残し続けた。