日本の住宅は太平洋戦争で変わった

日本の住宅の歴史は、近世から戦前までの1000年近く大きな変化はなかった。

田園においては、竈のある土間と板間に囲炉裏のある天井高の高い部屋をもつ茅葺き屋根と土壁によってできた農家の民家。

都市部では塀で囲まれた庭に、商家や武家の屋敷が板張りか漆喰塗りの壁に瓦で建つ。ほとんどの庶民は板張りか土壁塗りの長屋である。

写真はイメージです(PhotoACより)
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そのような名残が各地域に残り、現在では貴重な地域の文化資産や観光地となっている。日本の住宅事情を大きく変えたのはやはり太平洋戦争の戦禍である。

大規模な空襲をまぬがれた都市は、金沢、新潟、京都ぐらいなもので、その他の主要都市のほとんど、200ヶ所近くが爆撃を受けて、街は焦土と化した。数百年以上続いていた各地域の街の姿が灰燼に帰したのである。

東京23区においてはその9割近くが焼け野原になった。

死者は50万人を超え、家や家財を失うなど罹災した人は1000万人を超えている。戦前の日本の人口は7000万人ほどで、その家族や同僚、友人を含めて考えれば、国民の3分の1近くが路頭に迷い、生活の糧を失った。都市基盤から生産拠点、民間の資産まで、80年前に一度、なにもかも失っているのである。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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家がなくとも人々は暮らしていかなくてはならず、まずは廃材や焼け残ったトタン板などで雨露をしのぐだけの急拵えのバラックが建った。不足した食糧を求めて、都市の駅裏など人が集まるところには闇市ができた。

現在でも残る狭い路地裏の飲み屋街などは、この頃の名残りであり、中には本当に当時のバラックを継ぎ足し補修しながら使われている店舗も残っているのを見かけることがある。