“ぬぼう”としてねっちょりした話し方のサディスト

「1995年に少年出版社がコアマガジンに社名を変更した頃にバイトで入りました。最初に配属されたエロ雑誌の編集長が警察に連行されて休刊になってしまい、第三編集部の部長だった寺島さんに引き取ってもらいました」

そう語るのは小説家の樋口毅宏氏。彼は寺島が編集長を務めるエロ雑誌『ニャン2倶楽部』に配属されることになった。

雑誌の目玉は輪姦撮影ドキュメント「マニア撮影」だった。妻を他の男に抱かせることで興奮する「カンダウリズム」の性癖を持つ全国のマニアから「うちの妻もしてくれ」とリクエストが相次いで人気企画となっていた。

「寺島さんの最初の印象としては正直うさんくさい。背はそんなに大きくなくて、薄い色のついたサングラスをかけていて、金髪と茶髪が混ざっているような長い髪で鼻ひげと顎ひげを生やしていて、“ぬぼう”としていた。話し方もどこかねっちょりとしたような感じでした。

僕を拾ってくれたのは男優OKだったこともあると思います。入社して1ヶ月も経たないうちに勉強の意味も込めて『マニア撮影』に連れて行かれました。30代半ばの地方から上京してきた人妻に童貞だった自分は筆下ろしをしてもらいました。

そのあとはお声がかかれば、自社の編集部だけでなく他社の撮影でもパンツを脱ぎましたね」(樋口毅宏氏、以下同)

コアマガジンがある高田馬場駅前
コアマガジンがある高田馬場駅前
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いわゆるハメ撮りがエロ雑誌業界では当たり前だったといえ、社内で公然と撮影が行われているのはコアマガジンの異質さだった。

輪姦希望の女性を社内で撮影していると寺島は途中から顔を出し、撮影を中断させて自分だけ済ませるとさっさと去っていくなど、サディストである自分の欲望だけを満たすようになっていったという。

「今回寺島さんについて取材をすると、同僚だったこの人もこんなひどい目に遭っていたのかと思うほど、手を変え品を変え、ひどい目に遭っていたのを知りました。寺島さんの逆鱗に触れて会社をクビになったり、追放されたりした人もいました。

でも、どこかアンビバレントなところですが、寺島さんの話をいろんな人に聞くのはすごく楽しかった。僕たち寺島さんのことを本当は好きだったのか、憎んでいたのかわからなくなるぐらい。そういう意味でもあの頃のコアマガジンを象徴する人だったとも言えます」