実はそれほど早婚ではなかった

戦前は早婚だった、と思われがちだが意外とそうではない。

「昔は、13歳、14歳で嫁に行くのも珍しくなかった」

というような話は、明治も初期のころまでのことであり、明治31(1898)年に施行された民法では、15歳未満の女子の結婚を禁じている(男子は17歳未満)。

「戦前の女性は、十代で結婚するのが普通だった」

というのも、誤解である。

明治初期は確かに早婚が多かったが、その後、晩婚化が進み、昭和15(1940)年ごろには、男性28歳、女性24歳というのが、平均初婚年齢だった。

また四民平等の世の中となり、華族、士族が平民と結婚することも可能になった。ただし華族の場合は、国に請願をし、許可を得なければならなかったので、事実上はだれとでも自由に結婚できるというものではなかった。明治15年には、万里小路秀麿がロシア留学中に知り合ったロシア陸軍大佐の妹マリヤ・バユノフとの婚姻願を提出したが、受け入れられず、破談になってしまった。

女性が結婚相手に求めた条件

結婚の方法は明確な統計がないが、見合い結婚がほとんどだった。

恋愛結婚もあるにはあったが、先に述べたように、結婚するには戸主の承認が必要だったので、勝手な結婚は事実上許されなかったのだ。農家の場合は、見合いさえ行われずに、親同士の話し合いで決まることもしばしばあった。

ただし戦前の若い女性たちが、親の言いなりになって結婚していたかというと、どうやらそうでもないらしい。

たとえば、戦前の女性雑誌『婦人の友』の昭和8(1933)年1月号にはこんな記事がある。

1903年に前身となる『家庭之友』創刊がされ、現在も刊行されている『婦人之友』
1903年に前身となる『家庭之友』創刊がされ、現在も刊行されている『婦人之友』
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婦人の結婚難を解決する方法~迷うのがいけない~

結婚難は、年と共に深刻化して行くようですが、これは日本ばかりでなく、世界共通の悩みだと言われています。

これにはいろいろの原因もありましょうが、配偶者選択の範囲が著しく広くなって来たことも一つの原因であります。

昔は、同じ村の人とか、親類知人の範囲内で配偶者を選んだのですが、今日では交通や通信の便が開け、新聞雑誌で世間を見る眼も開けて来ましたので、そんな狭い範囲の選択だけでは満足できなくなりました。つまり、言えば理想が高くなったのです。~中略~

この頃のお嬢様方に、結婚の理想を訊ねてみますと、何よりもまず生活の安定が第一の条件になっています。たとえば、月収百円以下では困るとか、多少の財産がなくてはいけないとか、贅沢をしたいとは思わないが、たまには芝居を観たり温泉に行ったりするくらいの余裕が欲しいとか、そんなことがかなり重要な条件に挙げられております。

この記事では、この後、著名な医師や教育者などが登場し、「女学校を出たら職業婦人になれ」「結婚条件の基準を下げよ」「格式ある家の女中になって花嫁修業せよ」などの意見が述べられている。

『婦人の友』というのは、戦前、100万部近くの発行部数を誇り、もっともよく読まれた女性雑誌である。特別、裕福な層が読んでいたわけではないので、この記事はごく一般的な女性を対象にしたものだろう。

つまり、戦前の若い女性も、結婚相手に求める条件が年々上がっていっていたわけである。それが晩婚化した要因でもあるのだ。