「やっと1人に慣れてきました」

「(元相方の宮迫博之とは)30年一緒にやってきましたから。なかなかね。最近やっと1人に慣れてきました」

芸歴36年。最初にお笑い芸人を志したのは小学生のときだった。

「僕ら世代の大阪の小学生は、土曜日の授業が終わったら速攻、家に帰って昼ごはんの焼きそばを食べながら吉本新喜劇を見るんですよ(笑)。みんな絶対に見てました。もうお笑いが生活の一部だった。そこから僕が中学1年生の頃に、ツービート、島田紳助・松本竜介、B&Bなんかの漫才ブームがきて…『漫才っていいな』『こんな世界に入りたいな』と漠然と思っていました」

だが、「自分にはお笑い芸人になることは無理や!」となかなか一歩踏み出せなかったという。

「高校卒業して2年間くらいバイトとかしながらふらふらして『そろそろなんかやらなあかんな』と思ってたときに、ダメ元で吉本のNSC(吉本総合芸能学院)に入ったんです」

ダメ元とはいうものの、入学後3年が経つ頃にはバイトを辞めなければいけないほど芸人として忙しくなっていた。しかし「全然食えていたわけではないんです!」と苦笑いをする蛍原。

「毎日のように舞台があって、その稽古があって、打ち合わせがあって…。忙しすぎてバイトする時間が全然ない。でも舞台のギャラって1回270円とか。忙しいのに全然お金がない。だけど、毎日が楽しい! そんな時期でした」

蛍原徹 撮影/佐藤靖彦
蛍原徹 撮影/佐藤靖彦
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当時の話を懐かしげに話すが、そんな過酷な状況をいったいどうやって乗り越えたんだろうか?

「実はね、1度お笑いをやめようって考えたこともあるんですよ。めっちゃ楽しいけど、このままじゃ一生バイトして暮らすことになるなって。バイトしながらでも芸人を続けるか、就職して安定した生活をとるか。悩んだときもあったんですよね」

そう当時を振り返り、少し間をおいて力強くいった。

「でも、お笑いがやっぱり好きだったから『一生バイトしながらでもお笑いがやりたい!』と振り切ったんです」

そこから雨上がり決死隊、ナインティナイン、FUJIWARAらを中心とした吉本の若手芸人で結成された人気ユニット『吉本印天然素材』(天素)を結成。「一部女子高生にはウケてて、チヤホヤされていましたね」と少しはにかむように笑った。