パワハラは許されないが、厳しく取り締まる弊害で…
選手をよく観察すると、どちらかに偏っている場合が多い。自分の頭で考えず、協調性ばかり意識して周囲に流されている人、つまり烏合の衆になってしまい、みんながこうやるから自分もこうすると考える人だ。もう一方は、エゴイスティックに走って協調性をまったく考えない人である。その両極端に偏り、うまくバランスが取れていないように見える。この点をどうバランスを取らせるかが、監督の手腕になる。
2023年、プロ野球チームでパワハラのニュースがあった。ハラスメントは、絶対にあってはならない。それは大前提だ。
そのうえで言うと、パワハラは受け取る側の受け取り方によって変わるという難しい問題をはらんでいる。いくら選手に主体性を持たせても、チームとしてはある程度のパワーを使ってでも同じ方向を向かせなければならない場面も出てくる。その機会が、世の中の風潮によって奪われてしまったのがもったいない。
チームには、監督、コーチ、選手のパワーバランスがある。監督がすべての意思決定権を持つため、社会的パワーはもっとも強い。コーチがそれに準じ、選手は年齢が若いこともあって、最下層に位置する。しかも、選手のなかにも先輩、後輩というパワーバランスがある。どの世界でも、社会人として直面するさまざまなパワーバランスがある。
そうしたパワーバランスの上下を、私はできるだけ外したいとは思っている。しかしながら、パワーバランスがまったく消え、完全にフラットな組織になってしまうと、多くのことがうまくいかない「いびつな」チームになってしまうのではないだろうか。
つまり、チームに必要な協調性のなかで、上下関係のバランスも無視できない。なぜなら、選手の集中力にも影響を及ぼすからだ。それは、パワーバランスによる恐怖心や抑圧ではなく、適度な緊張感である。この緊張感が、チームを成長させる。
私が学生のころは、上下関係が厳しいことが当たり前だった。顧問の先生と選手、先輩と後輩。しかし、最近の若者はその意識が希薄になっている。パワハラに厳しい目が向けられるようになったことで、指導者が昔のような厳しい指導ができなくなったことが原因だ。先輩が後輩に強く指導することも、問題視される。
もちろん、パワハラは許されない。体罰や言葉の暴力を認めろと言っているわけでもない。正しく厳しい指導のなかには、個の強化はもちろん、チームスポーツの協調性や結束力の要素が含まれているということだ。それが徹底されなくなり、協調性を持てず、自由をはき違える若者が多くなっているのは否定できない。