胃がんをきっかけに体重は36キロに
勤務地の関係で、当時埼玉県さいたま市に住んでいた弟のアパートで同居をすることにした恵中さん。今回付いた職は、都内のデパートの化粧品売場の販売員だった。
「一応正社員になれたのはありがたかったです。でも、かなり忙しくて、歌のレッスンに通ったりなど、夢を追いかけることができない状態でした。それがたたったのか、体調を崩してしまいました。
病院で診察してもらったら、胃がんだったんです。
手術で切除することができたのですが、体重は36キロまで落ちてしまいました。結果、ガリガリに痩せてしまい、首や手の甲がシワだらけに…。
職場に復帰できたものの、先輩や上司にいつも『不健康すぎて商品イメージが悪くなる。太りなさい!』なんて言われて、本当につらかったです」
しかし、芸能の神は恵中さんを見捨てなかった。
「あるとき、『サッカーショップに行きたいから』という弟に誘われて、一緒に原宿に行ったんですね。弟が目当てのお店に行っている間、私は違うお店でものぞきに行こうと歩いていたら、『モデルをやってみませんか』と、スカウトされたんです。
『え!私なんかでいいの?』と思いましたが、夢に一歩近づけた!と、嬉しかったことは事実です。お話をうかがって、後日その会社に所属させていただくことにしました」
靴のモデルとして、芸能人としてのキャリアをスタートさせた恵中さん。某有名ファッションショーにも出場したという。
その後コンスタントに仕事が来るようになり、当時の事務所の社長が運営していたインターネット番組などに出演するように。そしてまた運命の歯車が動いた。
「番組内で演歌を歌わせていただいたのですが、それをたまたま、今の事務所社長である南雲社長が見ていてくれたんですね。『歌手としてマネジメントをさせてほしい』とお声がけいただいて、今の事務所に移籍をしました」
現在の所属事務所「南雲堂(なんうんどう)」は、もともと70年以上続く老舗の出版社であり、歌手・恵中瞳を発掘した南雲(なぐも)一範さんは、同社の6代目社長だ。
以前からマスコミや芸能関係者に知り合いが多く、エンターテイメントの世界に造形が深かった南雲さんだが、恵中さんという存在のインパクトと才能に惚れ込み、南雲堂の事業拡大の一環として、第1号タレントとしてプロデュースすることを決めたという。
「今でこそ、アイドルポップスもたくさん歌わさせていただいていますが、最初の売出しの方向性がなかなか定まりませんでした。
女芸人ぽい方向がいいのかもしれない、ということで、『R-1ぐらんぷり』に出場したこともあります。
でも、どうもしっくりこなくって。『やっぱり最初は演歌でいこう』という社長の判断で、デビュー曲は演歌に決まりました」
2015年に演歌『おとこはアリャリャ』でCDデビューを果たす。夢はついに形となり、歌手・恵中瞳が誕生した。