「美しい」とは何だろう

伝統工芸の職人さんたちと仕事をしていると、やはり「美しい」とはどういうことかを考えることになる。

今の僕は、かつて「野暮ったい」と思っていた民藝調の陶器にも、パッと見て技術がわかりやすい超絶技巧の江戸切子や蒔絵にも、同じように惹かれる。

用途もかたちも違う対照的なモノ同士にもかかわらず、同じ気持ちで美しいと思う。その共通点が伝統工芸であるなら、そこでの「美しい」とはどういうことかを考えた。簡単に言語化できるものではないと思うが、今のところ、僕が工芸品の美しさの説明として最も腑に落ちる表現は、岡倉天心の『茶の本』(1906)にある「人の温かな心の流れと自然の偉大さが感じられる」という言葉だろう。

たとえばIKEAやニトリで買える安価でお洒落な器と、伝統工芸の器の違いは何だろう。材料も形もデザインもさほど変わらないように見えて、価格は10倍以上の差がある。

お洒落なだけなら欧米のデザインや、より安価なモノが良いというお客さんも多いかもしれない。もちろん、一方が良くて他方がダメという単純な話ではない。

上の世代の方々がまず物質的な豊かさを実現してくれたからこそ、僕たちはこうした問いを考えられるのだと思う。それは、人間よりも緻密で正確な作業ができる機械が次々と開発される現代において、手仕事の価値とは何かという根本的な問いにもつながる。

僕なりにたどり着いた答えが、前述の「人の温かな心の流れと自然の偉大さが感じられる」ことだ。最初は「手仕事の温かみ」と聞いても抽象的でよくわからなかった。

むしろ、それを野暮ったいとさえ感じていたかもしれない。ただ、多くの工芸品にふれ、職人さんたちと向き合いながらモノづくりの現場を見せていただくことで、徐々に工芸における手仕事の重要性が見えてきた。

それは「民藝運動」を提唱した柳宗悦の言う通り、手仕事は自由であるということだ。

「一」の字を定規で書くと、始点と終点の間で決められた線にしかならないが、筆で書く際は始点と終点の間に無限の自由があると柳は考えた。手仕事においてはこの奥行きのなかで、職人さんがモノづくりの悦びを噛み締めながら、素材と対話し、あらゆる工夫を凝らしている。

また、1400年続く綴織(つづれおり)職人の清原聖司さんの言葉も思い出される。「工芸は愛だから。売る人も作る人も、経済的・合理的なことだけだと、愛やこだわりは置き去りになってしまう。

でも、人間からそういう感性や美意識を除いたらつまらなくないかな? 工芸にもいろいろあるけれど、使っているときに『つながり』を感じられることは健康的だよね」

「美しい」は「美味しい(おいしい)」とも似ている気がする。「美味しい」が決して味だけでは説明し切れないように、「美しい」もそのカタチや素材、技術だけで言語化はできない。

「美しい」は情緒的で、かつ作り手、自然、素材、カタチ、文化、場所、使い手、時間、実にいろいろな要素から創られる。そして、たくさんの美しいモノにふれ、自分の中に美しさの物差しができてくると、これまで見えていなかったものが観えてくる。

清原織物の清原聖司さん。
清原織物の清原聖司さん。

そして「観えること」は「嬉しいこと」だ。アメリカの作家、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの思想を表した言葉に、「It’s not what you look at that matters, it’s what you see.」(大事なのは何を見ているかではなく、何を見出すかである)という一文がある。

これも漢字で書くと、「見る」と「観る」の違いだろうか。これまで見えなかった、気づけなかった美しいものの本質に気づけるようになるのは、人としての大事な喜びだな、と実感している。それは暮らしの中に平穏をもたらし、暮らしを豊かにすることだと思うからだ。

モノだけでなく、その背後にある景色も観ること。すると、これまで見えなかった何かが自分の知識や経験と紐づいて、心が動かされる。

そんな経験は、人生をちょっぴり豊かにしてくれるだろう。これは「自分を観る」ことでもあって、特に良い工芸品と出会うと、自らの心の機微を鮮明に感じ、自分の「好み」を見出せる。そうして己を知り、自らの美意識と響き合うモノを暮らしに取り入れることは、自己実現の手立てにもなるだろう。

さらに、好みのモノを長年愛でるなかで愛着がわくと、そのモノに自分の心が内在するような感覚が僕にはある。そうして自身とモノの境目が融和し、一体となったとき、肉体や精神にとらわれず、より広く深く生きることができるのでは、と思うのだ。