なぜ伝統工芸だったのか
経済性の追求のみでは環境が破壊され、環境の優先のみだと経済性が伴いづらい現代において、こうした日本文化の価値観には、その二項対立を乗り越えるためのヒントが眠っている。
そう確信したが、これまで日本文化については、茶道、花道、伝統工芸など、いずれについても何も知らなかった。大学でのプレゼンは何とかなったが、起業となるとそうはいかない。
正直に言えば、僕にとっては「経年美化」のコンセプトを伝えられるなら何でも良かったのかもしれない。ただ、自分が日本人であること、グローバルにおける優位性が出ることを考えたとき、熟練の職人さんによる工芸品に注目するのは最善の選択だろうと考えた。
当時暮らしていたアメリカから、日本の伝統工芸をネットリサーチしてみるだけでも、予想以上に現代的で素晴らしいデザインや、超絶技巧の工芸品が多数あることを知ったのも大きかった。
伝統工芸というと、どこか野暮ったい壺や、「道の駅」で売られるお土産品を想像していた僕は度肝を抜かれ、これらを通じてなら、大切なモノと向き合う「経年美化」の価値観と共にアメリカで広められると確信した(いま振り返ると、当時はまだ伝統工芸の奥深さの表層しか見えていなかったのだが)。
そうと決まれば仲間集めで、僕を含む4人で創業した。まず、高校時代のアプリ開発事業から二人三脚でやっていた岡⽥佳⼈。
彼は高校卒業後にシリコンバレーへ行っていたが、誘うと二つ返事でLAへ来てくれた。3人目はアメリカで知り合ったデザイナーの天野太郎(現在はアメリカの大学に通いながら現地企業で修行中)。
最初はこの3人で事業についてアレコレ話していたが、やはり伝統工芸に詳しい仲間がいないと話にならないということで、帰国して人材を探した。真っ先に伝統的工芸品産業振興協会へ行くと、そこで働いていた当時大学生の吉澤果菜⼦が、頼もしい4人目の仲間に加わった。
しかし、当時の僕は19歳で未成年、まだ実績もないため資金の借入もままならず、すでに同級生は就職活動真っ只中である吉澤たちに、給料を約束することも難しい。
そこで公庫の創業者融資制度を申請しようとしたが「売上があれば、その分くらいまではお話聞けますよ」と、ほぼ門前払いだった。困っていた僕たちに力を貸してくださったのは、偶然知り合った鼻緒と草履のメーカー、株式会社菱屋の廣田裕宣代表だった。
ある日、地元大阪で立ち寄った商業施設で目を引かれたポップアップショップが、菱屋さんのお店だった。草履屋さんなのだが、ポスターには和服の日本人モデルではなく、半袖半パンで草履を履く外国人モデルの姿。
「草履は着物に使うモノ」と思っていた僕は驚き、思わず店員さんに「日本の伝統工芸をアメリカに広める会社をやっています!」とお伝えすると、「ウチの社長が好きそうです!」と廣田社長のお名刺をいただいた。その場でお電話したところ「それはオモロいな! 飯でも行くか!」と仰っていただけた。
廣田さんの会社は日本の伝統的な草履を扱いながら、スニーカーなどに用いるEVA素材を採用した履きやすくカジュアルな草履など、ユニークなアイデアも取り入れている。
僕たちの事業にとっても学ばせてもらえることが多く、その日は盛り上がって「また来てよ!」とお別れした。その後、資金繰りで途方に暮れていると、偶然にも廣田さんからお仕事の話をいただいた。
僕がもともと得意としていたウェブサイト構築などのご相談だった。打ち合わせを終えて「まだ売上がないから借入に行ったのに、売上がないと借入できないと言われました!」と半分笑い話でお話すると、「ほなええよ。1年間仕事頼むから、振り込むで」と翌日に数百万を振り込んでくださったのだ。
もちろん僕はスグに「売上あがりました!」と公庫を再訪。借入も順調に進み、吉澤を雇用できることになった。
「一人の人間が発する強い思いに対しては、全く縁がなくても、必ず反応してくれる人がいるのが大阪という街である。人間同士が近くて面白い」とは、同郷の大先輩・安藤忠雄さんの言葉だが、まさにそんな思いだった。
廣田さんや、職人の小椋さんは、当社をスタートラインに立たせてくださった恩人である。何か大切なことを決めるとき、いつも彼らの顔が浮かぶ。
そして、職人さんへ100通のラブレターを送ることを後押ししてくれた父の言葉「商売は結局、人と人」。偶然か必然か、こうした出会いやつながりが、僕をITの世界から伝統工芸の世界へと運んでいった。