自身の座を脅かすライバルが現れなかった理由
ピーク時の朝夕刊発行部数1400万部、世界一の発行部数を誇る読売新聞グループを築いた渡辺恒雄読売新聞グループ本社主筆が 12 月 19 日未明、都内の病院で死去した。
東大卒業後の 1950 年、読売新聞社に入社。ワシントン支局長、政治部長、主筆兼論説委員長、代表取締役社長・主筆などを経た後、2002 年からはグループ本社の社長、会長を務めるなど、四半世紀もの長年にわたり読売グループの絶対君主として君臨した。
読売新聞 OB もこう証言する。
「ナベツネさんの言葉は絶対。社論となる社説の論調も他社は論説委員による合議制ですが、読売新聞は主筆の座を最後まで手放さなかったナベツネさんの OK がなければ、執筆にGOサインが出ないほどでした」
社内の地位固めも万全で、渡辺氏の座を脅かすようなライバルはついぞ現れなかったという。
「古巣の政治部でこれと見込んだ有能な記者を政治部長や副部長に引き上げ、その後、読売の出世コースとされる社長室長に抜擢する。そこで2~3年、秘書のように自分の身の回りの世話をさせて忠誠心を養ってから、おもむろに本社や関連企業の役員や監査役などとして送り込むんです。
そうしてグループ内にナベツネさんの目となり、手足となる幹部を配置することで、社内での影響力を維持してきたというわけです」(前同)
2004 年に選手の待遇改善を求める古田敦也プロ野球選手会会長に、「分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が!」と暴言を吐くなど、尊大なワンマンぶりで知られた渡辺氏。
4コマ漫画ですぐにキレて『バカヤロー!』をやたら叫ぶキャラとして登場するなど、とかく俗物扱いされることが多かったが、実際にはその言動は分厚い教養主義に支えられ、重厚だったという。
別の大手新聞社 OB がこう語る。
「あるとき、新幹線で渡辺さんと同じ車両に乗り合わせたことがあったんです。そこで目についたのが渡辺さんの胸ポケットにささっていたカラフルな蛍光ラインマーカー。
渡辺さんの高級背広にはいささか不釣り合いだなと奇異に思っていたらカバンから哲学の原書を引っ張り出し、そのラインマーカーで傍線を引きながら一心不乱に読み始めたんです。通りがかりにその本をのぞくと、ページがラインマーカーの傍線で埋め尽くされていて驚いた記憶があります。
後に読売の記者から『(渡辺)主筆は高齢になってもいまだに教養学部の学生のように寸暇を惜しんで古典の原書などを読み漁って、知識のインプットを欠かさない。
世間ではナベツネさんの言動は粗暴という印象が強いけど、じつは分厚い教養に支えられており、きちんと議論するとその博覧強記ぶりにぐうの音も出ないほどやりこめられ、説得されることがしばしば』と聞かされ、なるほどなとうなずいたものです」