「教員はサービス業だから」

20年以上前、当時教育実習生だった私に、ある教員が誇らしくそう語った。チャイムの2分前には教室の外で待機し、チャイムと同時に入室。カバーすべき単元を無駄なく授業し、チャイムと同時に授業を終え、生徒と会話をする間もなく教室を後にする。

授業というサービスの提供に徹するその姿はまるで塾講師のようで、きちんとしているように見えた。でも、せっかく早く着いているのに、なぜ教室に入って生徒と触れ合わないのだろう? 違和感だけが私の中に残った。

「子どもたちにプロのサービスを」というのがその人の自慢だったが、彼の割り切った仕事観に、「プロ」の教師とはいったい何なのかと逆に考えさせられた。

それとは対照的に、後に私の師匠となる人だが、私が千葉市の中学校で教員をしていた時に出会った小関康先生の仕事へのアプローチは、サービス業とは正反対にあった。

例えば、小関先生は朝の会も帰りの会も、時間通りには行かない。特に、受け持っている生徒が中学3年生にもなると、チャイムが鳴っても意図して教室には向かわない。職員室でパソコンに向かってみたり、ふらっと他のクラスを覗いて回ったりする。

生徒はお客様? 教員はサービス業?「お客様を教育しなければならない」というジレンマのもと失われてしまった教師たちの尊厳_1
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それでも、自分たちで考え、行動することを徹底的に指導されてきた小関学級の生徒たちは、声をかけ合い、自分たちで会を進める。

帰りの会も、小関先生が職員室で事務「作業」をしていると、生徒が自分たちで調べて必要な連絡事項の伝達を全て行った時点で学級委員が呼びに来る。「全部終わりました。先生の話、お願いします」。その後は、小関先生がその日見たこと、感じたことを、こんこんと語る。

掃除なども、一見、小関先生は生徒と楽しそうにおしゃべりしているだけにしか見えない。それでも掃除はきちんと終わり、小関学級にはゴミ一つない。落ちていても、誰かがすぐに拾うのだ。

それを見てしまうと、さぼっている生徒には脇目もくれず、自ら必死に掃除している教員は何なのだろうと考えさせられる。小関先生は断言する。

「子どもの様子を観察することは大事。ただ、教員が子どものご機嫌をとるような環境で、子どもが育つわけがない」