「自分は何の役にも立たないゴミ」
ひきこもってからはほとんどの時間、自室でインターネットをして過ごした。
「ネット動画やSNSもない時代でしたが、今風にいうと個人が“推しを熱く語る”ホームページを探して、楽しんで見ていました。当時はデジカメや携帯電話が日進月歩で進歩していた時代で、ネットでパソコンの活用法も学びました。
時間に関係なく、目が覚めたら起きてネット、眠くなったら寝る。昼夜逆転より始末が悪かったです」
朝夕の2食は毎日母親が作ってくれたので、朝ご飯は母親が日中買い物に出かけている間に、晩ご飯は父親が寝静まった後、ダイニングテーブルで食べた。
マンション住まいなので一日に数十歩しか歩かない。
「こいつ働いていないんだな」と思われるのが嫌で昼間は出歩かず、週に1度、夕方や夜になると長い散歩に出かけたり、古本屋や中古CD店に行ったりした。
だが、PHSの通信料も含めて月1万円しかもらっておらず、お金がないので2、3か月に1度くらいしか買い物はできなかった。
子どものころから整理整頓が苦手だった野口さん。ひきこもってからは、片付けをすることも苦痛の種になった。
「これも不要、あれも不要、そもそも自分自身が何の役にも立たないゴミじゃん」
部屋の片付けを始めるとそんな思いに囚われてしまい、途中でやめざるを得ないのだ。
ひきこもる生活を始めて3年経った24歳のころ、母親が勧める医師のアトピー治療を受けるために、東北地方で一人暮らしをした。
当時、地方にもでき始めたインターネットカフェに入ると、地元の青年が声をかけてくれ、彼の家に遊びに行ったりした。
だが、アトピーの症状があまり改善しなかったことに加えて、ガスの元栓や玄関の鍵などいろいろなことが気になる強迫症的な症状が出てきてしまい、1年半で実家に戻った。
生まれて初めて「やべえ!」と感じた瞬間
そのまま10年、20年と、ひきこもる期間が長くなるにつれ、心境に変化はあったのだろうか。もし、ひきこもったまま両親が亡くなれば、すぐに生活も立ち行かなくなる。
将来が不安ではなかったかと聞くと、野口さんは静かな口調でこう言う。
「漠然と、親より先に死ぬわけにはいかないなと考えていたので、親が先に死んでくれれば、こちらも安心して死ねると考えたこともあります。
もともと小さかった自信も、年を追うごとにすり減っていきました。地デジに移行するときにテレビも買い替えできなかったので、世間への関心も年を追うごとに少なくなっていきました。
親亡き後を含め、将来を考えても何も希望を見出すことができない。だからといって、『働かなきゃならない』と考える方向には行かず、考えることすら放棄していましたね」
長くひきこもるうちに感情が消えていき、そのまま「消えてしまいたい」と考える人も少なくない。
野口さんは「死にたい」と考えたことはなかったのかと聞くと、「歩いているときに車にはねられて死んだら仕方ないのかなと思うけど、自分から死のうとは思わなかったです」と答えた。
「実は、一人暮らししたとき仲よくなった青年が、私が実家に戻った数年後にすい臓がんで亡くなったんです。彼の心遣いとか連れ出されて見た風景を思い出すと虚しさばかりで……。
自分が前に進む勇気には変えられませんでしたが、彼の若過ぎる死が影響しているのか、死に対して、“自分では選べない、選んではイケないことだ”という考えが浮かぶんです」
45歳のとき、人生を変える出来事が起きる。
ある日、家で新聞を読んでいると皮膚科の新規開院のチラシが目に入った。
「開院後すぐだと患者も少なく、詳しく話を聞けるかもしれない」
そう考えた野口さんは思い切って行ってみることに。2回目の通院の帰り道、夜の歩道で足を滑らせ、気が付くと四つん這いになっていた。
仰向けになろうと体を反転させても、左脚はまったく動かず脚が絡まる。
両手で左脚を持ち上げて、体育座りになると、膝の形が左右でまったく違っていた。
痛みはまったくなかったが、生まれて初めて、「やべえ!」と思った瞬間だった。
〈後編へつづく『24年間ひきこもった52歳男性、生まれて初めての仕事で雇い止め宣告…それでも社会復帰を諦めなかったワケとは』〉
取材・文/萩原絹代