小説に投影される自己
小池 書かれていることは実体験ですかと聞かれることが多いのですが、僕は小説に自分を投影することはそれほど自覚的にやっているつもりはありません。だけど、書いているうちに自分に対して説得力を持ちうるエピソードを出す必要性を感じると、材料として自分の経験したことを使うことはあります。恥ずかしさはあるのですがそれが小説を書く上で有効ならばいいかな、と。
又吉さんの作品でも、ご自身が経験されたことが出てきますね。例えば『人間』で語り手が子どもの頃に父親から言われた「おまえ、あんま調子に乗んなよ」という一言は、又吉さんご自身にとっても重要なものだったとどこかに書かれていたと思います。
又吉 そうですね。あれは僕の人生を変えた決定的な言葉でしたね。小説ってどんなものでも必ず共感できるところがあるはずなんです。共感ゼロってことはないと思う。小池さんのこの小説だって、僕は天と年齢も置かれている境遇も全く違うのに彼に共感しながら読みました。自分の幼い頃の記憶と天が経験することは重なる部分が多くて、天の気持ちが手に取るようにわかった感じがしたんです。
そのように誰かが書いた本に共感してきたのに、自分が書いた作品に限って共感できる部分がないということはあり得ないんです。本質も面白さも手放して、自分が共感できない作品を書くということだけを意識すれば可能かもしれないですけど、そうしたいと思えないんです。ただ、僕の場合は芸人だからなのか、読者に僕自身の話として読まれてしまうことも多い。何を書いても僕として読まれるなら、そのことにいちいちストレスを感じてても仕方ないと考えるようにしてます。
小池 結果に作用しないわけですからね。
又吉 そう。必ず自分のことだって受け取られるわけだから。もちろんそうやって読むことは悪いことやないと思います。むしろそれが人間の性なんじゃないかなとも感じます。だったらそれすら活かして書くことも大事なのではと最近では考えるようになりました。だから『人間』では語り手に自分を投影させた上で、途中でもっと僕に似た人物を出してみたんです。どうせ僕自身の話として読まれることがあるならそれを逆手に使ってみようって。
小池 僕も最初の小説では自分の経験したことのパーセンテージが割と高いものを書きました。ただ僕の場合は、なるべく自分から遠いものを書きたいという気持ちもあるんですが、書いているうちに自分の持っている素材がゴロッと出ちゃうんです。
又吉 その感じもよくわかります。僕は小説以外にコントも書くんですが、けっこうぶっ飛んだ設定にするんですよ。僕がバケモノの格好をしてて、相方がその面倒を見ている男爵みたいなやつ。もう完全にフィクションの世界なので、さすがに「あれはお前自身の話だよね」って言われることはありません。でも、僕自身は意外と自分の実感に近いことを書いているつもりなんですよ。僕からしたら小説もコントも自分との距離感は一緒なんです。
文学の世界では、それが私小説であるのか、ないのかがずっと重要視されてますよね。だから小説で自分に近いことを書くと、作者本人の話として受け取られる。コントを書いても自分自身の話とは受け取られないのに。あれってなんなんですかね。作者の話として読むことってそんなに大事なんかなって思いますね。ここには又吉自身のことが書かれているとか言われても、何も言ってないに等しいんじゃないかなという気がしてしまいます。
文章に滲む人間の悪意
小池 僕は又吉さんの小説が読者の心の深いところを動かす理由の一つに、登場人物の言葉が聖母のような温かさで他者を許容するときもあれば、ナイフのように鋭敏な批評を誰かに向けることもある、それらのどちらに転ぶかわからない人間の一瞬一瞬の模様にあるんじゃないかと思います。例えば、『文學界』で連載されている「生きとるわ」でも相手を傷つける言葉を思考する場面がありました。読みながら、そっちに考えが広がっていかないでくれと思わされたのですが、そうやって読者がつい緊張する瞬間があちこちにあるんです。一人ひとりの人生という物語のなかに、さらに泡のように細かい一瞬の物語というものがある。そしてその細かな物語は、陰謀論のような大きな物語とどこかでリンクしている。そのことを又吉さんは鋭敏に描いてきたのではないかと思うんです。
又吉 めちゃくちゃ面白いご指摘だと思います。ただ、僕としてはじつは笑ってほしいだけだったりするんですよ。こいつそっちに転ぶんか、やばいなって(笑)。かといって別にふざけてるわけじゃないんです。っていうのも僕自身がそっちに行くこともあるので。自分がそうなるときは俯瞰で見るようにはしてるんですが。
僕は小池さんの作品を読んで反対のことを感じました。小池さんの描くものには哀愁とか寂しさは表れてるんですけど、人間の悪意みたいなものがない。そこがすごい。
小池 ほんとですか?
又吉 普通、人間ってポジティヴな言葉よりもネガティヴな言葉の方が刺さりやすいから、そっちをうまく使おうとするじゃないですか。例えば、何食ってもまずいって言ってる評論家がたまにうまいって言うと、おおーってなるみたいな。
小池 落差をあえて作るわけですね。
又吉 でも、まずいってことはないやろと僕は思う。おいしいと紹介されてるような飲食店でまずいと感じたら、まず自分の味覚を疑った方がいい(笑)。本も一緒で何十年も好きで読んできた人なら数行読んだら自分に合わないってわかるやろうに、文句言うために最後まで読んでますやん。好きより嫌いの方が信用されやすく、その方が需要もある。だからそういう悪意を利用したサービスも多いんですが、小池さんの小説はそこに加担しないのがいいですね。
小池 ありがとうございます。よく悪意をもっと書いた方がいいって言われるんですが。
又吉 そっちの方が簡単なんですよ。僕なんか悪意だけ書いとけって言われたらやりやすいなと思う。そうじゃない書き方で面白く書けるから、小池さんの小説は素晴らしいんだと思います。そういう悪意みたいなのは書きたくならないってことですよね?
小池 できれば(笑)。
又吉 すごいわ。ほんと、すごい。
小池 でも、書かなきゃいけないんじゃないかって気もしてます。
又吉 どうなんですかね。人によって考え方は違うと思うんですが、書く必然性が出たときに書けばいいんじゃないですかね。小池さんの小説を読んで「もっと人間の醜悪な部分を書け」って言うのはスイーツ食べに行って、なんでスパイシーなもんがないねんって怒ってるようなもんでしょ。
小池 お店が違う(笑)。
又吉 そうそう。だって人間を書きながら悪意が全く滲み出ないって、普通はできないですよ。僕なんか「生きとるわ」を書きながら嫌になりましたもん。めっちゃ性格悪いな、自分って。そもそも文章の方が意地悪な部分って出やすいですよね。僕、ラジオやテレビでコメントしてるときに悪口言う気は一切起こらないですから。
小池 文章の方が自分自身の心の深い部分が出やすいということでしょうか。
又吉 そうですね。もちろんサービス精神で書くこともありますけど、無意識というか、書いてるうちに悪意がダダ漏れになることの方が多いですね。だから小池さんのその意識は特別なものだと思います。そのうちどこかで自然と爆発するときもあるだろうし、そうなったらそうなったで面白いですしね。そのときの悪意の表現は痛みをちゃんと理解した上でのものになるだろうし。誰かに悪意を表現しろって言われてやっても、小池さんが本来持ってる良さが失われるだけというか。自然なビブラートが出せなくなるんじゃないかな。だったら、自分の書きたいように書いた方がいいと思いますね。
小池 自然なビブラートというのは、とても嬉しい言葉です。今日はありがたいアドバイスをたくさんいただいた気がします。これからも自分の書きたいものを手放さず書き続けていきたいと思います。ありがとうございました。
(2024.9.23 神保町にて)
「すばる」2024年12月号転載