「お金を稼ぎたいみたいな感情が薄れてきたのは30代になってから」
東出はかつてA.ランゲ&ゾーネという高級ブランドの腕時計をしていた時代もあった。高価なモデルになると1000万円近くする価格のものもあるドイツ製の機械式腕時計だ。
「事務所の社長にプレゼントされたときは、すごく嬉しかった。でも、今の僕の生活には合わないんで。若い頃はいいスーツを着て、街を歩きたいと思っていたこともあるんです。マルジェラとか、ヨウジヤマモトとか、ドルガバとか。
でも、それで生きている実感を得られたとか、すごく人生が楽しかったということもなかった。むしろ、物質に頼って生きている自分が気持ち悪かったんです。今の生活のほうがしっくりきますね。功名心とか、お金を稼ぎたいみたいな感情が薄れてきたのは30代になってからかな。
最近は市井の人のすごさみたいなのもわかってきました。こんな山の中にもすごい人っていっぱいいるんですよ。若いと、そういうのに気づかないじゃないですか」
結局、東出のインタビューは3時間近くにも及んだ。名残惜しさを滲ませつつ礼を述べると、こんな言葉をかけてくれた。
「今度はキャンプ場に2、3泊してください。そうしたら漁師飯を用意できるので。今、スッポン釣りをやっているんです。スッポン鍋も、めっちゃうまいので」
なんと魅惑的な誘いだろう。リップサービスだろうと思いつつ、いや、まんざらそればかりではないのではないかとも思った。うかがいますと即答しかけたが、ひとまず自重した。
だが、私が名残惜しかったのは東出のジビエ料理を堪能できなかったからではない。
東出という人間は不完全で、矛盾に満ちていた。そして、それを本人も嫌というほどわかっているからこそ、できる限り自分で自分の穴を埋め、少しでも人に幸福を分け与えられる人間であろうとしていた。
そう、われわれと同じである。なのに嫌われる。なぜか。2つ目の謎の答えは見つかりそうになかった。
われわれが男と女という永遠のテーマについて語り合っているとき、東出は唐突にこう叫んだ。
「瀬戸内寂聴、呼んできて! でも、寂聴さんもその答えを見つけられずにお亡くなりになってんだもんな」
この日、いちばんの名言だった。私はこの話の続きをもう少しだけしたかった。
取材・文/中村計 撮影/石垣星児