パーティーに明け暮れ、ドラッグに手を出し、愛し合う日々…

1967年、アメリカは泥沼化するベトナム戦争に疲弊していた。

ベトコンに何の恨みもないはずの、アメリカの田舎町の名もなき若者たちが次々と徴兵され、閉ざされた環境で徹底的にベトコンを憎んで殺すような教育を受けたのち、過酷な戦場に送り出されていく。

一体誰のための戦いなのか。

そうしたベトナム戦争への批判が高まる中で、首都ワシントンのリンカーン・メモリアル公園に10万人もの人々が集まり、アメリカ国防総省の本庁舎ペンタゴンまでのデモ行進が行われたのは、1967年10月21日のこと。デモに集まった多くが、「ヒッピー」と呼ばれる若者たちだった……。

ワシントンD.C.にあるリンカーン記念塔 写真/Shutterstock
ワシントンD.C.にあるリンカーン記念塔 写真/Shutterstock
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ヒッピーのルーツは、「ビートニク」にある。

第2次世界対戦後のアメリカでは、保守的な家庭や社会への反発からドロップアウトする若者が現れ始め、彼らは次第にビートニク、あるいはビート・ジェネレーション(打ちのめされた世代)と呼ばれるようになった。

居場所を失った彼らが、安住の地として辿り着いたのが、サンフランシスコの北西部に位置するのどかな海辺の町、ノース・ビーチだった。

親や社会によって植え付けられた価値観を否定したビートニクは、身体を洗うことを拒み、髭を剃ることもなく、パーティーに明け暮れ、ドラッグに手を出し、愛し合う日々を過ごす。

写真はイメージです 写真/Shutterstock
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ところが1960年代に入ると、ノース・ビーチは都市化が進められ、高層ビルが建ち始めた。

それはビートニクにとって、資本主義社会の侵略であり、彼らはノース・ビーチに代わる新たな安住の地を探さなくてはならなかった。

そして再び辿り着いたのが、のちに「ヒッピーの聖地」と呼ばれるヘイト・アシュベリー地区だった。

ノース・ビーチの南西にあるこの地区は緑が多い住宅街で、高層ビルや商業施設もなく、彼らにとって理想の環境となった。

1960年代半ばになると、新たに多くの人々がヘイト・アシュベリーにやってきた。ケネディ大統領の暗殺後、ベトナム戦争に本格的に介入していくアメリカに希望を失い、社会からドロップアウトした若者たちが、噂を聞きつけて集まってきたのだ。

「ヒッピーの聖地」と呼ばれるヘイト・アシュベリー
「ヒッピーの聖地」と呼ばれるヘイト・アシュベリー

そこに行けば、住む場所も食べ物もあるし、同じ境遇の仲間たちもいる、彼らにとってヘイト・アシュベリーはまさに楽園だった。

ビートニクと同じく、既存の価値観を否定し、争いごとを嫌い、常に愛し合い、LSDが見せる幻想の世界で自由に生きる彼らを、メディアはヒッピーと呼び始めたのはこの頃からだった。