労働生産性が低い者
評者は先に、恩蔵と信友が同じ主題に挑んだと書いたが、これは「母親が認知症になった」という共通点を指しているのではない。上っ面の表現を採るなら、ふたりは「人が、如何にして他者を受け入れ得るか」を自らの経験として実践し、思索したと言うことができる。
では、嫌われる言い方に書き換えるとどうか。彼女らが思い悩み、ついに突破するに至った共通の障壁とは何だったのか。それは「労働生産性が低い者を、我々はいかにして包摂し得るか」という問いである。
たとえば、母親に認知症の兆候を認めた恩蔵は、科学的事実を告げられることを怖れるあまり、1年近くも専門医に診せることができず、ただ泣き暮らしていた。
このままでは〈母が母でなくなってしまうかもしれない〉【6】と、思いあぐねた恩蔵は懊悩の末、ひとつの信念に殉ずる覚悟を決める。
〈私はアルツハイマー型認知症の人に関しては、言葉以外のものは全部あると思っています。言葉にするのが苦手になるだけ(…)言葉でうまく言えないだけで、認知症のある人も健康な人と同じようにすごく複雑な感情を持っていると思うんです〉【6】
それでも彼女は、脳科学者として「科学」と「自らの思い」に一線を引くことは忘れない。〈アルツハイマー型認知症の人に関しては、言葉以外のものは全部ある〉も〈認知症のある人も健康な人と同じように複雑な感情を持っている〉も、現時点では科学的事実と断定はできないので、末尾には必ず〈思う〉と付け足している。