「明晰な瞬間」の驚きと歓喜

しかし、実際に身の回りに認知症を患う者がいる人の中には、恩蔵の信念を経験則として確信する向きもあるだろう。評者もそのうちのひとりだ。およそ柔和な表情というものが消え失せ、言葉を失い、湯飲みの上げ下げすら叶わなくなった者が、久方ぶりに会った友人に対して、その友人のためだけの言葉を口にした後、涙を流す。

ラシッド・モーメント(明晰な瞬間)の驚きと歓喜は、目の当たりにした者の胸中に深く染み入る。

知性も感情も十全に保持されているにもかかわらず、外部に向かって「表現することだけができない」という状態を、誰にでも分かりやすく形容するとしたら、ジョーダン・ピール監督の映画『ゲットアウト』における呪術(催眠術+手術)の描写が適当かもしれない。

この映画における呪術は、マトリョーシカのような「心身二元論」として表現される。肉体としての「自分」の内側に、精神としての「自分」が入れ子になっているわけである。呪術をかけられる以前には、「内側の自分」と「外部から見える、肉体としての自分」はシンクロしているが、呪術によってその連携は断たれてしまう。

内側にいる「本当の自分」は生きており、動いている。しかし、その意思や動作や感情は外側のマトリョーシカには反映されない。

人権と科学的根拠

認知症がもたらすディスコミュニケーションの有様を、あたかも脳性麻痺のように捉える恩蔵の人間観を「非科学的だ」と切り捨てることは難しくないだろう【7】。

だが「科学的根拠に基づかない人間観」を即座に間違ったものとみなすのであれば、「ひとりひとりの人間が基本的人権を有する」という理屈もまた間違っているということになってしまうのではないか。天賦人権説には、科学的根拠など存在しない。

ようするに、近代社会の根柢を支えているのは一種の「道徳的人間観」なのである。

なぜ、恩蔵は目に見える行動や言葉ではなく、目に見えず、聞こえないもの、あるいは見えたもの、聞こえたものとは異なる意味を「じつは内面は保持している」と信じることを止めないのか。それは彼女(や信友)が、母親を愛し続けたいからだ。

写真はイメージです 写真/shutterstock
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恩蔵が重ね重ね強調する「その人らしさ」とは、すなわち「主体性」である。自分自身の判断で、自らの意思を行動に移し、その結果の責任を負う。主体性は、一般的にはそのように捉えられているが、恩蔵は「判断(意思)」と「行動(結果)」を切り離して受け取ることの重要性を説いている。

つまり、「表現すること」それ自体が大切なので、その「失敗」の責任を直接本人に負わせるのは誤りだというのが、彼女の主張の本質なのである。失敗によって生じる損失ないし負担は、余力のある者(家族や社会)が解消すればよい【8】。

この思想は、恩蔵や信友のような介護者だけではなく、認知症の当事者たちの求めにもぴたりと重なる。