自爆攻撃を行った若者の遺書
ハマスは1988年からイスラエルに対する武装闘争を始め、最初の自爆テロまで80件の軍事作戦を実施しているが、ほとんどがイスラエル軍やイスラエル警察、占領地のユダヤ人入植者を標的としている。94年の最初の自爆テロに関わった人物に対するアルジャジーラのインタビューでも、それまでの軍事作戦は民間人を標的にしていない、という認識だった。
私は現地でハマスの自爆テロを取材していて、それがイスラエルの占領に端を発する暴力の連鎖によって起こることは理解していたが、ニュースとしての悲惨さや衝撃は大きく、ハマスの主張によって自爆テロが正当化されるとは思えなかった。
私自身がエルサレムのピザレストランでの自爆テロを身近に経験したことを契機として、その直後の2001年8月中旬に自爆テロの背景を取材するためガザに入った。
その時は、6月22日にイスラエル兵士2人を殺害したハマスの自爆攻撃の背景を調べた。
イスラエルの報道によると、自爆現場はガザ北部のユダヤ人入植地近くで、道路わきで砂に車輪を取られた車から助けを求める声が聞こえたため、巡回中の兵士たちが車を降りて近づいたところで爆発が起こったという。その自爆で死んだ大学生イスマイル・アルマサワビー(23)の家族を訪ねた。
ここで断っておかねばならないのは、イスラムでは自殺を禁止しているため、自爆とは言わず「殉教作戦」という。パレスチナ人のとらえ方として表記する時は「殉教」と書くが、それは自爆と同義である。
さらに、イスラエルにとってパレスチナ人の攻撃は相手がイスラエル兵士であってもイスラエルの民間人であっても「テロ」であるが、「テロ」は非武装の民間人に対する攻撃に対して使い、西岸、ガザを軍事占領しているイスラエル兵士に対する攻撃は「テロ」ではなく「攻撃」と表記する。
イスマイルの件は、ガザの占領軍に対する攻撃であるから「自爆攻撃」となる。
イスマイルの父バシールによると、その日は金曜日で、いつも通り、近くのモスクでイスラムの集団礼拝があり、イスマイルも参加した。イスマイルは敬虔なイスラム教徒で、前日は断食していた。
当日は新しい白い長衣を着て礼拝に出かけ、そのまま外出した。夜8時ごろ、近くのモスクの拡声機から、息子の名前が「殉教者」として流れたのを聞いた。イスマイルはガザにあるアルアクサー大学でアラビア文字のデザインを専攻し、4年生の最終試験の最中だった。バシールは「息子が社会活動に参加していることは知っていたが、ハマスの軍事部門のイッズディン・カッサーム軍団に参加しているとは知らなかった」と語った。
自爆攻撃の翌日、バシールのもとに、覆面で顔を隠した男が、イスマイルが残した2分間のビデオテープと遺書を持ってきた。ビデオテープの中で、イスマイルはカッサーム軍団の戦闘服を身体につけ「私は神の思し召しを実現し、イスラエルによって無実のパレスチナの民間人が朝となく、夕となく、殺害されることへの報復として、殉教を実行することを宣言します」と語り出した。
イスマイルの顔を入れたカッサーム軍団のポスターもあった。遺書は「同胞へ」「両親へ」「兄弟へ」と3通あり、デザイナーの卵らしい美しい手書きのアラビア語で、それぞれ「最後の言葉」がつづられていた。