君が犯した罪は万死に値します
水原はこう続けて書いていた。
『「少年A」被害者遺族の慟哭』のユウカさん(拙著でも仮名・被害者の母親)の、「調書の中にタケシ(拙著でも仮名)の暴行された全裸の写真もありました。(中略)余りにもむごい姿でした。私は胸が苦しくなりました。とても辛くて、涙が止まりませんでした。(中略)とくに集中的に殴られた部分は、皮膚が赤黒く変色していました。打たれていない場所などありません。言葉では言い表せないぐらい本当にむごい姿でした。想像以上のむごい、ひどい姿でした」。
同書の、市原千代子さんの「それは土下座を含めて、自分を納得させたいだけの行為で、被害者や被害者遺族の気持ちは何も考えていない。ひとりよがりの謝罪です。そうすることで、彼は謝罪が終わったものと思い込んでいるのです」「赦すか、赦さないかという、二者択一ではありません。そういう複雑な私の思いを、うまく言葉にして伝えることができない、というもどかしさもあります」。
小木法子さん(同書)の「加害者に対する憎しみはいまでもあります。憎しみだけでは前に進めないけれど、赦すこともありえません。憎しみ100パーセント、赦さないも100パーセントの気持ちです。加害者は賠償金を支払うことで、罪を償おうとしていることは理解しようと思っています。理解していくしかない。でも、その〝理解〟は〝赦す〟とは違うんです。この感情を言葉にするのは難しいのですが」。
これらのご遺族の方々の言葉をノートに書き写し、読み返しますが、その言葉は重く、上に挙げたものだけでなく、すべてが自分のしたことの意味を考えさせられます。
『殺された側の論理』に記録されている本村洋さんの「毎日思い出し、そして己の犯した罪の大きさを悟る努力をしなければならない」「君が犯した罪は万死に値します。いかなる判決が下されようとも、このことだけは忘れないで欲しい」という言葉も脳裏に去来します。
本村洋の闘いについては、ジャーナリスト・門田隆将のノンフィクション作品『なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日』(新潮社、2008年)に詳しく書かれている。
いわずもがな、1999年に山口県光市で起きた18歳の少年が3人家族の妻と幼い娘を殺害した事件である。私も上記の『殺された側の論理』にルポをおさめ、『罪と罰』(本村洋・宮崎哲弥との共著、イースト・プレス、2009年)では本村と対話もしている。
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