残酷さを追求できなくなった近代の刑罰
ところが、時代が進んで、合理主義や人文主義、人道主義や人権主義が大いに発達したことで、国家は、刑罰を設置、使用するにあたって、多くの制限原理を受けざるを得なくなり、ひたすら残酷さを増大して衝撃性・可視性・有形性を図ることができなくなった。
その反映として、多くの国で特に近代社会になってから、刑罰はまず人文化や合理化に向けて、そして人道化や人権化を目指して変化を見せ、応報・予防・改善・人権といった複数の価値のなかでバランスをとるようになった。
このような変化の内容は二つの方面に集中している。一つは、刑罰の体系や類型が大幅に減らされ、単純なものに変わったことである。特に身体刑は、今日、ほとんどの国で廃止されるようになった。
もう一つは、刑罰の執行方法が合理的、人道的になったことである。一部の国では、今でも死刑を存置させて執行しているが、煮沸刑や牛裂のような残酷な執行方法は、もはや使われていない。
ちなみに、人類の刑罰の合理化や人文化、人道化や人権化の過程で一つの不思議な現象が起こっている。顔に入墨をしたり、足や手を斬るような身体刑は人道に反する残酷なものとして早々と廃止されたのに対し、死刑が廃止されていないことである。
足や手を斬ることと、首を斬ることの、どちらがより残酷かという問題は、未だに我々人類に投げかけられている。筆者が思うに、身体刑が廃止された本当の理由は、それが残酷だからという人文上・人道上・人権上のものではない。
身体刑は労働力の利用にとって不利で、社会や周りに更なる負担をかけるという経済的合理性によっているのではないか。身体刑を廃止するものの、死刑を廃止しないのは、我々人類が露呈してしまった一つの偽りかもしれない。