麻婆豆腐を伝えたテレビ発の料理家

異国からやってきた辛い料理といえば、まずカレーが思い浮かぶ。イギリスを経由して明治から大正にかけて普及した、今や誰もが認める日本の国民食である。ただ、カレーはトウガラシが主役というより、ミックススパイスであるカレー粉が受け入れられたフシがある。

トウガラシが料理にがっつり入り込んでくるきっかけとなった料理は何だろうか。探してたどり着いたのが、戦後に家庭料理として根づいた麻婆豆腐だ。刺激的な辛さが持ち味の四川料理でありながら、ここまで日本の食卓に溶け込んだ料理はほかにないだろう。

麻婆豆腐はなぜ、ここまで日本の食卓に定着したのか? 1959年料理番組で初めて「マポドウフ」と紹介された四川料理が“テレビの申し子”といえる所以_1
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背景として考えられるのは、1950年代に中国料理が幅広い層へ浸透したことだ。戦前に中国料理店といえば、広東や福建などの料理を出す高級店が中心だった。

しかし戦後、引き揚げ者が餃子を出す店を始めるなど、安価でボリュームのあるメニューが人気を博した。また、中国の内戦を逃れて日本へ渡ってきた人々によって、中国各地の料理が紹介されるようになったことも大きい。

麻婆豆腐をお茶の間に広めた最大の功労者は、当時急速に普及していたテレビだった。

四川飯店の創業者で、陳建一の父として知られる陳建民が最初にNHK『きょうの料理』で紹介したという記述をたまに見かけるが、これは事実と異なる。初めて麻婆豆腐を披露したのは中国出身の料理研究家、王馬熙純である。

『きょうの料理』の放送開始から2年後の1959年(昭和34)11月4日放送で、王馬は「中華風豆腐料理二種」のうちの一品として紹介した。

そのときの番組テキストをみると、「マポドウフ」とフリガナがふられ、「ひき肉と豆腐の唐がらしいため」と説明が書き添えられている。

レシピでは、本場四川でよく使われる牛ひき肉の代わりに安価な豚ひき肉を使い、豆板醬をみそとトウガラシで代用し、つくりやすいように工夫されていた。今でこそ家庭でも豆板醬を使うが、その点を除けば今つくられているレシピとほぼ変わりない。

王馬は、その前年に刊行した『中国料理』(柴田書店)でもすでに麻婆豆腐を紹介していた。茹でたり揚げたりした材料をスープで煮こみ、片栗粉でとろみをつけた「燴」の一品として取りあげ、「家庭の惣菜に向く、手軽に出来る即席料理」で、ご飯に合うと勧めている。

今でこそ彼女を知る人は少なくなっているが、テレビ黎明期に中国料理を伝えた功労者の一人である。当時は、ほかに張掌珠、沈朱和といった中国料理を担当する看板講師がいた。

みな裕福な家庭の妻であり、その憧れも相まって、中国料理のイメージアップにつながった。しかもこの3人はみな、麻婆豆腐を紹介している(張は1961年6月13日、沈は1964年5月26日)。それだけ反響の大きかった料理だったということだろう。

では陳建民が、麻婆豆腐で番組に出演したのはいつだろうか。

陳建民著『さすらいの麻婆豆腐』(平凡社、1988年)や陳建一著『ぼくの父、陳建民』(大和書房、1999年)では、昭和34年にNHKの番組に出たと記されている。

しかし先に述べたように、同年に初めて麻婆豆腐を紹介したのは王馬熙純である。番組テキストをすべて確認したが、陳建民が登場した形跡はない。

答えは、番組の制作に長年携わってきた河村明子による『テレビ料理人列伝』(日本放送出版協会、2003年)にあった。

同書によれば、陳建民が麻婆豆腐で初出演するのは1966年(昭和41)4月だという。ただ残念なことに、テキストの掲載はなく、実際のレシピを確認することはできない。

だが、おそらくは愛嬌のある話しぶりで視聴者を惹きつけ、麻婆豆腐の知名度を上げるのに大いに貢献したにちがいない。