作家と登場人物の関係は、監督と俳優の関係に似ている
平埜 今回、書くのが特に大変だった話とかってあるんですか。
古内 いやもうどれも……。資料を集めたり取材したりしているときはすごく楽しいんですが、物語に落とし込むときはとにかく大変で。まず、隠れ家はどこで、登場人物はどんな人で、あの方から聞いたお話をここに入れてみようという感じで書き始めるのですが、いつも最初の一、二行を書いては止まり、これ本当に最後まで書けるのかなという不安に駆られるんですよ。でも、不思議なもので、無理だ、全然思いつかないと思っても、一生懸命書き綴(つづ)っているうちに何か動き出す瞬間というのはやはり訪れるんです。
作家にはいろんなタイプがいて、特にミステリー作家さんに多いそうですが、プロットを作った時点でラスト一文字まで全部わかるという方もいらっしゃると聞きます。作家って、そういう全部先にわかってしまう「神様系」と、私みたいな「憑依(ひょうい)系」の二つに大別されると個人的に思っていて、私の場合は先がわからないまま物語の登場人物になりきって書く。高校生の男の子なら高校生の男の子、バブル世代のおじさんならバブル世代のおじさんになりきるんです。彼らがどういう結論に辿り着くのか私にはわからないのですが、書いているうちに登場人物がちゃんと終わり方を見つけるんですよ。
平埜 面白い。もっと最初から緻密に計算して書かれているんだと思っていました。
古内 ただ、恐ろしいのは、下準備が足りていないと全く書けなくなっちゃうこと。憑依させきれないというか。そうすると、途中で登場人物から「俺、わかんないっす。季節はいつですか。風は吹いてますか。俺は今どこでどんな格好してますか。それがわからないと動けません」って言われちゃうんです。それで、「すみません、下準備が足りていませんでした」と改めて調べて彼らに教えていくと、「わかりました!」って動いてくれる。
平埜 まるで監督と俳優みたいですね。俳優でも、役を憑依させるっていう人はいますよ。
古内 平埜さんもそういうタイプなんですか? それとも自分から役に近づいていくタイプ?
平埜 僕はどちらでもないですね。うまく言えないんですが、近づくというか勝手になっちゃうみたいな。台本があって話し始めたら、もうその役になってますっていう感覚です。でも、演技ってどうしてもその俳優のパーソナルな部分が出ると思うから、それを生かしながら説得力を持たせるために、役についての下調べをしたりもします。
古内 そのときに本は使いますか。
平埜 もちろんです。特に時代物を演じる場合だと、現代と感覚が全然違うし、それこそ法律レベルでも違うじゃないですか。今の価値観で役に接するとどうしても摩擦が生じるので、だからそれを一回排除しなくちゃいけない。『兵卒タナカ』のときも、天皇制や徴兵制についてかなり調べました。当時の人たちがそれをどう捉えていたのかを知るために手記や証言にも当たって、役柄にフィットする価値観を自分のなかに落とし込んでいくという作業をしましたね。
古内 それって、すごく作家の仕事に似ていますね。
――東京ハイダウェイ』のなかで平埜さんが演じるとしたら、どの人物を演じてみたいですか?
平埜 役者の場合、やりたい役とやれる役って違ったりもするんですよ。僕はこの役に共感を覚えるけれど、自分の年齢や性別、外見なども含めてできないだろうなという場合もありますし。
古内 たとえば、女の子の役をやってみたい、といったこともあるわけですね。
平埜 そうですね。すごくシンパシーを感じるのが女性の役だったときに、舞台ならできる場合もありますが、映像だと作品の毛色がだいぶ変わって、伝わるメッセージも違ってしまうことがあるので、なかなか難しいですよね。だから『東京ハイダウェイ』の場合、やれる役で考えると桐人かなと思います。
古内 平埜さんに合っていますね。桐人は二十代後半の設定ですし。
平埜 桐人にはもちろん共感もするし、自分の真面目さや頑固さみたいなものも含めて演じられるだろうなと想像できるんです。だけど、やりたい役は光彦(みつひこ)なんですよ。
古内 光彦!? どうして?
平埜 自分の生き方とちょっと似ているなと。クラゲのようにたゆたっている感じや、流れに身を任せていたらたまたまここに辿り着いたみたいなところが。
古内 光彦は五十代だし、平埜さんは全然そんなふうに生きているとは思えないけど(笑)。
平埜 でも、一番共感を覚えるのは久乃なんです。久乃は四十代の女性だし、僕自身の属性からはさらに離れてしまうんですけどね。カフェチェーンの店長をしていて、今の状況には事足りているけれど、人が持つ“仮面”について思いを馳せているあたりとか。久乃が、自分は素顔をさらして生きているけど、仮面をたくさん持っていたら、うまく切り替えられることがあるかもしれない、と考える場面がありますよね。その気持ちはすごくわかるんです。
息苦しさを取り払うための隠れ家やスイッチを持ってほしい
古内 作中でも書いたけれど、私、「自助」って嫌な言葉だなと思うんです。自分のことは自分でやるべき。それはみんなわかっていると思いますよ。わかっていてできない人たちがいるのに、それを切り捨てるような息苦しい世の中になってしまった。「隠れ家」というテーマを選んだのは、少しでもその息苦しさを取り払う手助けになるもの、気晴らしになるようなものを書きたいという気持ちもあったからなんです。平埜さんにとってそういう隠れ家的な場所はありますか?
平埜 この本を読んだ人は絶対に、自分にとっての隠れ家がどこなのかって考えますよね。僕も読みながらずっと考えていたんですが、自分の場合は「読書」なんじゃないかと改めて思ったんです。作中の言葉を借りると、隠れ家とは「ときに恐ろしいほど無慈悲になる世界と対峙(たいじ)するために、ささやかに自らを癒す場所」。つまり、「力を蓄える場所」ですよね。僕にとってはまさに読書がそういう場所だなと。
古内 それはすごく嬉しいですね。
平埜 もし隠れ家が見つからなかったら本を読めばいいんじゃない? というメッセージを、古内さんはこの作品に込めたのかなと勝手に思っていたのですが。
古内 『東京ハイダウェイ』も、そういう隠れ家になってくれたらいいなと思うし、作中に登場する場所に、実際に行ってみようかなと考えてくださったら、さらに嬉しいですね。
平埜 プラネタリウムには今日来られたから、次は上野に行ってみようと思います。なんだか行程表を作って聖地巡礼したくなりますね(笑)。遠方に住んでいる人も、旅行やお仕事で東京に来たときに足を運んでみてほしいです。
――古内さんにとっての隠れ家はどんなところでしょうか?
古内 この本でご紹介したところはどこも私のとっておきの隠れ家なんですが、あとは体を動かすことも隠れ家になると思いますね。
平埜 確かに。「タイギシン」の主人公の圭太(けいた)も、ボクシングに出会って変わっていきますよね。
古内 私、体を動かすのも好きなので、水泳や、それこそ最近はボクシングもやっているんですよ。担当編集さんはバレーボールをされていて、体を動かしているときは何も考えなくて済むからそれが隠れ家になっているとおっしゃっていて。それもいいなと思って「タイギシン」を書いたんです。
あと私、公園で本を読むのが好きだったんですが、コロナ禍で難しくなった時期がありましたよね。それで仕事場のベランダにキャンプ用の椅子を買って、そこで外気に当たりながら本を読むようにしてみたんですよ。そしたら最高に楽しくて。ベランダも十分隠れ家になるなと思いました。今は隠れ家がないとなかなか生きづらい世の中ですよね。
――オンとオフの境界が曖昧になりがちな今の時代ですが、うまく息抜きをするコツは何でしょうか?
平埜 何だろう、難しいですね。だけど、作中でも取り上げられていたハラスメントとかコンプライアンスの概念が芸能界や演劇界にも浸透してきていて、結局のところ一番気を遣える人だったり、一番優しい人がつらい目に遭っちゃうんじゃないかとか、いろいろと考えさせられるところがありました。
質問の答えになっているかわかりませんが、実はコロナ禍で同業の知人が精神的に追い詰められて、亡くなってしまったんですよ。そのとき、彼と僕とを分けたものは何だったのかとすごく考えたんですが、おそらく僕は鈍感だったのかなと。「鈍感」ってもしかしたらすごく大切なキーワードなんじゃないかと。いい意味で「まあいっか」と割り切れる鈍感さは、この複雑な社会を生きるうえで、意外と必要になるのかもしれません。
古内 それたぶん、鈍感さというよりは「スイッチ」なんだと思います。踏みとどまれるか踏みとどまれないかのスイッチ。どんな人にも危うい時期って絶対にあると思うんです。その人にしかわからないことも多いから一概には言えないんだけど、違いはそこにあると私は思います。だから、そこで踏みとどまったということは平埜さんのスイッチはきちんと機能したということ。なかなかその切り替えが難しいこともあるとは思うんだけど。
平埜 なるほど。作中で久乃が考えていたように、自分のなかにいろんな仮面を持つことも、スイッチを切り替えるうえで重要なのかもしれませんね。自分が何者なのか、母なのか女性なのか上司なのか。僕も、趣味のサウナやタップダンスのレッスンに行っているときの自分、筋トレをしているときの自分、本を読んでいるときの自分、家族と一緒にいるときの自分……何人かいますが、そういう仮面をたくさん持つことは大切かもしれません。
古内 そう思います。そうしてできるだけたくさんのスイッチと、たくさんの隠れ家を用意してほしいですね。そこから逃げることはできなくても、何かが過ぎ去ってくれるまで、少しの間だけでも隠れていられる場所。そういうものがあるだけできっと違いますよね。そのヒントをこの作品のなかから見つけていただけたら嬉しいなと思います。
――対談後、プラネタリウムで『まだ見ぬ宇宙へ』というプログラムをご覧いただきました。太陽系を脱して宇宙の果てまで旅をする、じつに壮大な内容でした。
平埜 いやあ、面白かったです。宇宙の広さを前に、なぜ自分はこんなことで悩んでいるんだろうって気持ちになりますね。解説を聴きながら幼い頃に通ったプラネタリウムの記憶が蘇りました。
古内 星の悠久の時間を思うと、自分が自分でいられる時間の短さが胸に迫り、その時間を大切にしなきゃと思いますよね。やっぱり、こういう素敵な隠れ家で、心身を解放して力をチャージする時間って大事だなあと思います。
「小説すばる」2024年6月号転載