落語と出会わなければ時代小説を書くことはなかった。
そう語るのは、陸尺(ろくしゃく)と呼ばれる江戸時代の駕籠舁(かごかき)を主人公にした『我拶(がさつ)もん』で、第36回小説すばる新人賞を受賞した神尾水無子さん。
このたび、受賞作の刊行を記念して、神尾さんが大ファンだという柳家喬太郎師匠との対談が実現!
「小説」と「落語」。
表現方法の異なるお二人に、創作についてのお考えをたっぷり伺いました。
「陸尺」を知った驚きが出発点
――神尾さんは喬太郎師匠の大ファンだそうですね。
神尾 師匠が創作された『ハンバーグができるまで(※)』や『午後の保健室』が大好きなんです。『午後の保健室』のどんでん返しのあざやかさには本当に圧倒されました。
※舞台化もされた喬太郎師匠の人気創作落語。妻と離婚し、普段の夕食は惣菜や弁当で済ませているマモル。そんな彼が突然、合い挽き肉、タマネギ、大嫌いなニンジンなどを買いに来たから商店街の店主たちは大騒ぎ。寂しさのあまり死のうとしているのではと心配した店主たちがマモルの家をこっそり訪ねると、そこにはなぜか元妻の姿があって……。
喬太郎 ありがとうございます。僕も昔は小説が好きだったんです。特にミステリーをよく読んでいて、都筑道夫先生の初期の作品みたいな、小説という形式それ自体がトリックになっているようなものから影響を受けましたね。『午後の保健室』のどんでん返しもそこからだと思います。でも、今日は神尾さんのお話ですからね。小説に関しては、僕はただのおじさんですから。
神尾 いえいえそんな(笑)。『ハンバーグができるまで』を初めて聴いた時、私にはマモル君の最後のセリフが悲しく聞こえてしまったんです。でも、あれは彼の強がりだったのかなとか、もう二度と食べられない奥さんの料理で、苦手なニンジンの味さえも変わってしまったのかなとか、ときどきふっと考えることがあって、まるで短編小説のような味わいがある噺(はなし)だなと思っています。生意気な言い方ですが。
喬太郎 作り手としては何も考えてないんですよ。聴いた方がいろいろと考えてくだされば、それでいいのかなと思うんですよね。こっちは球を放っているだけで、受けてもらった人たちの『ハンバーグができるまで』になればいい。
『ハンバーグができるまで』は、別れた夫婦ってどんな会話をするんだろうってことへの興味からできた噺なんです。それと、下北沢のスーパーで買ったものを袋詰めしているお客さんの姿を見て、当たり前だけど、いろんな人たちが買い物をしに来て、そこにはそれぞれの人生があるんだなと思って。それを自分なりにくっつけたらああいう噺になりました。
……って、僕の話より神尾さんの話だ。拝読しましたよ、『我拶もん』。
神尾 ありがとうございます。
喬太郎 とっても面白くて、よくこれだけのことをお調べになったなって思いました。僕らもよく高座で駕籠舁をやってますけど、陸尺って言葉は知りませんでしたよ。でも、確かにそうだよな。考えてみりゃ、そのへんの人や荷物を運ぶ雲助(くもすけ)と、大名の駕籠を担ぐ人は違うわけだし、こういう職業もあるんだなと。
神尾 ある意味、選ばれた存在でもある陸尺のことを知った時、とても興味が湧きました。でも、陸尺は物語の主人公にならないんじゃないかなとちょっと不安だったんです。誰が興味を持つんだろうって。噺家さんは、創作落語にしろ、古典落語にしろ、今の時代に合ってるだろうか、お客さんにウケるだろうかっていうことを心配されますか。
喬太郎 しますね。だけど、僕らはとりあえずやっちゃうっていうのができるんですよ。一遍やってみて、駄目ならやめちゃえって。僕らがやっていることは文字のかたちで残らないじゃないですか。だからできる。お客さんが面白がってくれるだろうかという不安もなくはないですけど、それも見方によるんだと思うんですよね。陸尺も、確かにこれまでの時代小説では脇役だったかもしれない。でも、それを主役に据えたことで、読者がいろんなことを知れるじゃないですか。陸尺にはこんなにたくさん階級があって、そのてっぺんには御公儀が召し抱える御駕籠之者(おかごのもの)っていうのまでいたんだって。びっくりですよ。
神尾 私も調べてびっくりしました。
喬太郎 時代小説を手に取る人だったら「へえ、駕籠舁の世界ってこんななんだ」って、興味津々なんじゃないかと思いますよ。
神尾 そう言っていただけると嬉しいです。
説明しすぎるのは野暮
神尾 喬太郎師匠も参加していらっしゃった『十八番(おはこ)の噺 落語家が愛(め)でる噺の話』を拝読して、師匠が言葉遣いをすごく大事にしているとおっしゃっていたのが印象的でした。例えば、「かっこいい」と言わずに「様子がいい」と言うとか、「ど真ん中」は上方の言葉だから、江戸では「まん真ん中」と言うとか。
喬太郎 古典落語をやる時には、やっぱり「かっこいい」よりも「様子がいい」だと思うし、二ツ目の頃に「ど真ん中」と言ったら、とある方から「喬太郎、おまえ、それを言うなら『まん真ん中』だぜ」と言われて、それから気になっちゃうようになりましたね。
神尾 例えば「様子がいい」って、若いお客さんにちゃんと意味が伝わるのかなっていう不安は感じませんか。
喬太郎 前後の流れでわかるだろうって思ってますね。僕も若い頃、古典落語で「様子がいい」なんて言い方を初めて知りましたけど、何となく「かっこいい」ってことかなと思いましたよ。よく覚えているのは「もやいを解く」。「船をもやっておく」っていうのが出てきて、ああ、船を繋いでおくことかと。前後の流れで「あ、こういうこと言ってんのかな」と察しましたね。説明していくと情報量が多くなって、肝心の噺の内容がお客さんに入っていかないと思うんです。野暮ですしね。
神尾 説明って話を止めてしまいますよね。できるだけしたくはないですが、わからないのは困るなって。小説を書くうえでも悩ましいところです。
喬太郎 羨ましいのは、小説は文字で読むじゃないですか。『我拶もん』に出てくる「乙粋」なんて言葉も、文字を見りゃ乙で粋だって想像がつく。やっぱり文字のほうが察しやすいのかなと思います。神尾さんは、ああいう古い言葉をお調べになるのがきっとお好きなんですよね。
神尾 大好きです。書いてるより楽しい時もあるくらいです。
喬太郎 そこが小説家と噺家の違いですよ。僕らは調べるのは嫌いだから。もちろん調べる噺家もいますけど、自分の中にあるもので噺を作る人が多いんじゃないかな。さっきの『ハンバーグができるまで』にしても、自分がハンバーグを作ってみたことがあるから、材料があれとあれとあれだってのがわかってできた噺なんで。これが舌平目のムニエルとかだったらわからないし、たぶん調べても実感をもってしゃべれない気がします。
神尾 そうなんですね。ただ、調べたつもりでも、あとで間違いが見つかることもあって。『我拶もん』の最初の原稿には落語の『花色木綿』のことをチラッと出したんです。でも、あれは当時なかったんですね。気になって調べ直してみたら、『花色木綿』は一八〇二年くらいにできたらしいんです。『我拶もん』の設定が一七四二年なので、『落語手帳』で調べて『てれすこ』に変えました。
喬太郎 そういえば昔、時代劇の『銭形平次』だったと思いますけど、噺家が主人公の回があって、高座で『野ざらし』をやってたんです。その時はまだ単なる落語好きだった大学生の僕から見ても「違うぞ」って思いましたもんね。『野ざらし』が今の形になったのは明治時代ですから。まあ、いいんですけどね。
小説は大変ですよね。史実ってものがあるし、綿密に書かれているからこそ嘘にしていい部分とそうじゃない部分ってのがありますもんね。僕らは「いいんだ、落語だから」の一言で終わっちゃうから。ただ、先輩からは「そんなわけないだろってのも、本当は違うってわかっててやってんだったらいいよ、でも知らずにはやるなよ」って言われますね。