「傷痕の奥に見えるもの」千早茜×石内都『グリフィスの傷』_1
すべての画像を見る
グリフィスの傷
著者:千早 茜
定価:1,760円(10%税込)
グリフィスの傷
著者:千早 茜
定価:1,760円(10%税込)

購入する
電子版を購入する
試し読み

不注意、事故、性暴力、整形など、さまざまな傷をめぐる十の物語を集めた短編小説集『グリフィスの傷』。作者の千早茜さんが着想源にしたのは、世界的写真家の石内都さんの『Scars』や『INNOCENCE』という傷痕をテーマにした作品群です。日頃から交流を重ねているお二人ですが、今作品の背景や傷痕に対するお互いの考察、書くことや撮ること、そして千早さんが尊敬する石内さんに、この機会に聞いておきたかった読書体験や人生のことなど、じっくりと語り合っていただきました。

構成/綿貫あかね 撮影/神ノ川智早

最後は自分の傷を撮ってシリーズを終わらせる

千早 石内さんの個展に初めて行ったのは、2016年にSHISEIDO GALLERYで行われた『石内都展 Frida is』というフリーダ・カーロの遺品を撮影した作品展のときでした。それから、2019年に東京都庭園美術館の岡上淑子展でお見かけして、つい声をかけてしまいました。
石内 あのとき、若くておしゃれな人だなと思いました。私の持っている小説家のイメージとは全然違っていて、あ、いいかもしれないって(笑)。
千早 ありがとうございます(笑)。石内さんの作品は、それまで企画展で何点か展示されているのを見ていたのですが、あの写真展では石内都の写真に丸ごと包まれる空間を初体験しました。フリーダ・カーロはもともと好きなアーティスト。彼女の人生は本当に痛みにまみれていて、自分の中では痛みの人という認識でした。ところが、そこにあった写真は色がものすごく鮮やかで、人生の喜びに満ちていた。ああ、こういうフリーダもいたのかと、さらに好きにさせてくれた素晴らしい体験だったんです。それから『Scars』(蒼穹舎)や『INNOCENCE』(赤々舎)など傷痕を撮った作品集を知りました。石内さんの写真を見て、傷や痛みを自分でも書いてみたいとトライしたのが今回の短編集『グリフィスの傷』です。

石内 傷や痛みをテーマに書くのは大変だと思うんですよ。決して明るいものではないし、幸せでもない。でも、なるほど、こういうふうに物語るんだと面白く読みました。
 私がなぜ傷を撮り始めたかという理由の一つは、自分にも傷痕があったこと。その傷は冬になると疼くんです。何か体の中に違和感があるというか、傷痕が自分の存在を主張するの。
千早 大きい傷痕なんですか?
石内 大きいです。それが気になっていて、この傷痕をちゃんと写真に撮るとどう写るんだろうと思うようになった。そして、やっぱり自分が持っているからか、ほかの人の傷痕も撮りたいという気持ちがすごくあったのね。ただ、傷痕を持っている人を探すのがとても大変。

千早 どうやって探したんですか?
石内 たとえば、何か集まりがあると、終わってから「傷痕はありますか?」って聞いて。でもね、興味深いことに、東京の京橋の国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)での個展で傷痕の写真を初めて発表したときに、意外と傷を持っている人が「撮ってほしい」とたくさん訪ねて来られたんです。それで、傷に対する考え方が少し変わりました。傷痕って一般的には隠すものだと思われていますが、実際に持っている人は、変な言い方になりますが撮られることに割と前向きなんだなと。私の写真はすごく大きくて、縦一メートル五十センチに引き伸ばされた傷痕の写真を見ると、その人たちの体にある傷痕とは全然違うんです。別の世界に行くような感じで、実際の傷痕と写真のものは違って見える。
 私自身はまだ自分の傷を撮っていません。隠すことでもさらけ出すことでもありませんが、でも傷痕というのは生きている証拠なんです。死ぬと一緒になくなってしまうわけだから。それで、傷痕はすごく愛おしいなと思って撮り始めました。もうすぐ撮り終わります。

千早 終わりがあるんですね。では、自分の傷痕を撮られるんですか?
石内 始めたら終わりはくるし、だらだら撮っていても仕方がないなと思ってね。実は新たに大きな傷ができてしまって。元からあるのは、小学校二年生のときに腹膜炎で盲腸が破裂して、死にそうになったときの傷痕で、結構大きいんです。それが、昨年子宮がんになって、その横のお腹の真ん中辺に二十センチくらいの傷ができた。このテーマは自分の傷痕を撮って終わりにしようと思っていたのに、まさかその横にこんな大きな傷ができると思っていなかったので、結構ダメージを受けました。
千早 でも自分の体は逃げないので、終わらせるのはもっと先でもいいわけじゃないですか。
石内 いえ、もう長い間撮り続けてきましたから。このテーマは『Scars』から始まって女性の傷痕を撮った『INNOCENCE』に変化しましたが、傷痕というのは男のほうが多いのではと考えて、男性の傷痕から撮り始めたんです。ところが、男性のそれに比べて女性の傷はマイナスのイメージが非常に強い。性暴力を受けた人に対してキズモノというひどい言葉もある。私はそういう言葉に敏感なんです。
千早 女性の傷は確かにそうですね。今回の十編すべてに主人公の名前をつけていないのは、誰であってもいいというふうに読んでもらいたいという意図があります。長編では難しいのですが、短編ならできるかなと思ったので。ただ、いろいろな主人公で書こうとしたけれど、結局は十人のうち男性は二人だけで、ほとんどが女性になってしまいました。女性の傷のほうが物語が深いんですよね。

傷に対する捉え方のジェンダー的変化が進行中

石内 十編のうち、「この世のすべての」がいちばん印象的でした。この主人公はきっとレイプされた女の子で、かなり大きな傷を負っている。ラストでははっとしました。
千早 これは以前から書きたかったことで、このラストは短編でないとできませんでした。
石内 同じ傷を持っていても、男と女では違うんだというところに心が動きました。男性は傷があろうがなかろうが、彼女にとってはすべて嫌悪する存在。男と女は住む世界が違っていて、その違いを認めるしかない。同じ部分を探しては駄目だなと思いました。
千早 理解不能なところは確かにありますよね。最近の若い男性はいろいろな面で敏感になってきて、二番目の短編「結露」にも書いたように、優しくなりすぎて人との関係で正解を出そうとしてしまうなど、失敗してはいけないという気持ちが強い。でもそれは女性のことをわかっているのではなく、これを言ってしまったら社会不適合者のレッテルを貼られるとか、わかっていない男と思われるのが嫌で大人しくしている部分もある気がして、本質的には相手を理解できていないのではと思うんです。

石内 男性は物心つく前から、男たるものこうあらねば、という価値観を親や周囲から刷り込まれている。だからかわいそうといえばかわいそうですよね。そういう意味では同情します。
千早 男性でも、男なら風俗に行くのは普通だろ、という考え方やそれを押し付けられることに耐えられない人もいます。セックスは好きな相手としかしたくないのに、男性社会でそういうことを声に出して言えない人は結構いて、私の本を読んでお手紙をくださったりします。繊細な男性が埋もれやすい社会だなと感じます。
 最後に収録している「まぶたの光」という小説でも、男の子が顔の火傷の痕をメイクで隠していて、メイクアップセラピストの診察を受けに行く場面があります。女性なら傷を気にしてメイクで隠すのは自然なこととされて、男性だとメイクをするのはどうなんだと思われる。べつに傷を気にせず隠さない女性もいるだろうし、隠したくてメイクする男性だっていると思うんです。傷をテーマにして書くことになり、これ幸いと編集者たちに「傷はありますか?」「どうやってその傷を負ったのですか?」と聞きました。当然みんな理由はそれぞれ違うのですが、傷自体は意外と気にしていないんですよね。先日も額に傷のある若い女性ライターがいましたが、髪を上げておでこを堂々と出していたし、メイクで傷痕も隠していませんでした。

石内 昔だと女性に傷があると負のイメージがあったけれど、今は違ってきているんでしょう。男性でも、男はこうでなければという、作り上げられた一つの強固なイメージから外れる人が増えてきています。最近は自分の男性性を疑う男性も現れてきました。そういう人が、女性をはじめ他者と本当の意味での関係性を結べる気がします。

欠落した部位の感覚が残り続けるのは体の記憶なのか

石内 この中に、指が切断される小説があったでしょう。
千早 「指の記憶」ですね。
石内 あれを読んで、水木しげるさんの腕のことを思い出しました。以前、水木さんの映画を作る計画があって、パートナーがニューギニアに一緒に行ったんです。
千早 すごいですね。いいなぁ。水木しげるさん、大好き。
石内 水木さんは太平洋戦争のときに南方に出征して、左腕を失っているんですね。でも、腕はもうないのにある感覚がする、と言っていたそうです。そういうものらしい。体の記憶なのか形の感覚なのかわかりませんが。

千早 そう聞くと各パーツに記憶がある気がしてきます。美容形成の先生から聞いた話ですが、眉を整形する場合、頭皮の毛根を移植するんです。すると、本来の眉毛は毛先が細くなっていて一定以上伸びないようになっているのに、髪の毛を移植すると髪のように長く伸びてしまうらしい。その話を聞いて、移植された場所でも細胞は本来の役目を果たそうとするということは、私たちの意思とは関係のない細胞の記憶があるんじゃないか、と思って「指の記憶」を書きました。
石内 それはあると思いますね。
千早 他は医学書を読んで、そこからイメージを膨らませたんですが、「指の記憶」は自分の想像で書いた作品です。