立川談志さんは落語小僧がそのまま大人になったような人
いよいよ、初代司会者で番組の生みの親でもある七代目立川談志さん。
1966(昭和41)年5月に番組がスタートして、選挙に出るからと番組を降りた1969(昭和44)年11月まで司会を務めました。その頃、落語は何となく敷居が高い芸になりかけていて、談志さんはそういう状況をどうにかしたいという思いがあったんです。ご自分でも「笑点」のことを「俺の最高傑作」とおっしゃってましたね。
途中、談志さんが目指すブラックユーモア路線に大喜利メンバーが反発して、歌丸さんや圓楽さんたち初期メンバーが一斉に番組を降りるという騒動もありました。メンバーがガラッと入れ替わったんですが、その頃の視聴率はいまひとつだったようです。ぼくは談志さんが司会だった頃は、若手大喜利に出してもらってました。
談志さんをひと言で言うと「一日中起きてた人」かな。天才でもあったけど、努力家でもあった。寝るときも天井に謎かけをいっぱい貼って、それで練習する。頭の中はいつも落語のことでいっぱい。中学生の頃から詰襟で寄席に来て、一度聞いた噺は覚えちゃって帰りには口ずさんでいた。そんな落語小僧がそのまま大人になったみたいな人です。
談志さんが番組を抜けて、また大喜利メンバーが入れ替わることになって、ぼくも新メンバーのひとりになりました。じつは、ちょこっと裏事情があるんです。現代センターという談志さんが作った事務所があって、談志さんも歌丸さんも小圓遊さんもぼくも、そこに所属してました。ぼくが入れたのは、今で言う「バーター」です。
現代センターは、落語家やタレントだけじゃなくて放送作家もたくさん抱えていて、番組の制作もやってました。「笑点」もそこで作っていたから、談志さんは司会を降りたあとも、番組とは密接なつながりがあったんです。
当時から談志さんは「これからは素人が出てきてね、ひな壇で面白いことを言ったりするようになるから、その前に落語家ががんばらなきゃいけないよ」と言ってました。今、そのとおりになってます。誰だか知らない人がひな壇に並んで、なんか面白そうにしゃべってるけど、こっちは見ていて何も面白くない。
先見の明がある人でしたね。先が見えすぎて、まわりに理解されなかったり、自分を苦しめたりするところもありました。味方も敵も多い人でしたが、「笑点」の関係者はもちろん、すべての落語家や落語関係者は、あの人に足を向けては寝られないと思いますよ。
文/林家木久扇