三波伸介さんは演劇や映画にビックリするほど詳しかった

先代圓楽さんの前に司会を務めていたのが、「てんぷくトリオ」の三波伸介さんです。1970(昭和45)年の暮れから亡くなった1982(昭和57)年の暮れまでだから、12年ですね。50代以上の方にとっての「笑点」は、三波さんが司会のときのイメージが強いんじゃないでしょうか。

三波さんが司会になったきっかけは、北海道で収録があったときに、大雪が降って当時の司会の前田武彦さんが乗るはずだった飛行機が飛ばなかったことなんです。しょうがないから、ゲストで呼ばれていた「てんぷくトリオ」の三波さんが、臨時で司会をやりました。そのときの司会っぷりが好評で、スケジュールの都合で降板することになっていたマエタケさんに代わって、三波さんがやることになったんです。

北海道の大雪 写真/Shutterstock.
北海道の大雪 写真/Shutterstock.

あの方は、ぼくたち大喜利メンバーの個性を引き出しつつ、全体を楽しく盛り上げる手綱さばきが見事でした。大衆演劇の出身でコメディアンですから、いろんな笑いの寸法が頭に入ってるんですね。

歌丸さんと小圓遊さんの罵り合いやぼくの「いやんばか~ん」が番組の名物になったのも、三波伸介さんが上手にリードしてくださったおかげです。

落語の世界の人ではないので、もともと付き合いがあったわけじゃありません。お酒も飲まなかったし、超売れっ子でとにかく忙しかった。自分が司会の冠番組が5本ぐらいあったんじゃないかな。収録が終わるとすぐに次の仕事に行っちゃいましたから、交流らしきものといえば、本番前にちょっと雑談するぐらいでした。

若い頃に浅香光代さんの一座にいたこともあって、演劇にはめっぽう詳しかったですね。番組の特番で歌舞伎の『勧進帳』をやったときに、ひとりずつ細かい動きを振りつけてくれたのはビックリしました。セリフから見得の切り方から、全部頭に入っているんです。三波さんのお得意のフレーズじゃないけど、「ビックリしたなあ、もう」でしたね。

映画のこともよくご存じで、モノマネも得意でした。ぼくが大喜利で昔の映画スターのものまねをやると、掛け合いでモノマネをかぶせてくれるんです。「丹下左膳」の大河内傅次郎さんの口調で「シェイはタンゲ、ナはシャゼン」なんて言ったりして。

「笑点」が人気番組としてお茶の間に定着したのは、三波さんのおかげです。もっとたくさん、古い映画の話とかしたかったですね。

前田武彦さんは「笑点」のテーマソングの“作詞者”

三波さんの前が、放送作家から売れっ子タレントになった前田武彦さん。初代の司会だった七代目立川談志さんのあとを受けて、1969(昭和44)年の秋に2代目司会者になりました。談志さんの推薦だったそうです。「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」や「夜のヒットスタジオ」も、同じ時期に出てらっしゃいましたね。

司会がマエタケさんになったのと同時に、ぼくも大喜利のレギュラーになりました。最初は自分のことで精いっぱいで、右も左もわからず、ほかの人のことを観察する余裕なんてありません。ちょっと慣れてくると、司会とメンバーとのあいだが、微妙にギクシャクしている気配を感じるようになりました。

マエタケさんは器用で頭の回転も速い方でしたが、発想やリズムがバラエティ番組っぽいというか、落語の世界のそれとはどうしても違いがある。

バラエティ番組のイメージ 写真/Shutterstock.
バラエティ番組のイメージ 写真/Shutterstock.

ポンポンとボールを投げ合う感じにならなくて、メンバーとしては不満がたまるし、マエタケさんもやりづらかったでしょうね。ただ、ぼくの「杉作、ニホンの夜明けは近い!」を拾って伸ばしてくれたのは、マエタケさんでした。

もともと短期間の約束でしたが、視聴率は悪くなかったので、局としては長く続けてほしかったようです。結局「スケジュールの都合」で、1年ぐらいで自分から降板なさいました。もしかしたら、忙しかったことだけが理由ではないかもしれません。

マエタケさん時代に生まれたのが、大喜利メンバーのカラフルな着物と今も流れているオープニングテーマです。オープニングテーマは中村八大さんの作曲で、今はメロディしか流れていませんが、最初は歌詞もありました。「ゲラゲラ笑って見るテレビ」で始まるんですけど、それを作詞したのはマエタケさんで、ご自分で歌ってました。あれは、また何かの機会に番組で流したら面白いかもしれませんね。