先代の三遊亭圓楽さんは幕末の志士みたいに熱い人だった

歌丸さんの前に司会だったのが、先代の五代目三遊亭圓楽さん。番組が始まった最初からの大喜利メンバーで、一時期ちょっと抜けてまた戻ったんですけど、1977(昭和52)年に「落語に専念したい」と言って、番組を一回「卒業」しました。師匠である六代目三遊亭圓生師匠に「お前はこんな安っぽい芸人で終わるのか」とたしなめられたらしいです。圓生師匠は、厳しくて頑固な人だったんですよね。

5年後の1982(昭和57)年の暮れに三波伸介さんが急死して、翌年から司会として復帰しました。それから23年にわたって司会を務めて、今のところの最長記録です。本人は「最初は2回だけのピンチヒッターって約束だったんだ」って言ってましたけどね。圓楽さんに戻ってきてもらうのは、ぼくたち大喜利メンバーの願いでもありました。

落語家のイメージ 写真/Shutterstock.
落語家のイメージ 写真/Shutterstock.

圓楽さんは「落語界をどうにかしないといけない」と、いつも考え続けていました。幕末の志士みたいに熱い想いを持った人でしたね。

「笑点」を降りたちょっとあとに、圓生師匠とともに落語協会を飛び出したんですけど、それから1年ちょっとで圓生師匠が亡くなりました。今さら協会に戻れないから自分の一派を作って、弟子たちに修業させる場が必要だからってんで、大きな借金を背負って「若竹」という寄席も建てたんです。

長く司会を続けたのも立派ですけど、「笑点」におけるあの方の最大の功績は、六代目圓楽である円楽(当時の楽太郎)さんと好楽さんをメンバーに入れたことですね。ベテランや中堅が並ぶ中に、歳も若くて実績もなかった楽太郎さんを入れたのは、けっこう大胆な人事です。

好楽さんは最初に林家九蔵として入ったときは自分の弟子じゃなかったですけど、そのときに「九蔵さんがいいよ」って言ったのも先代の圓楽さんです。

円楽さんはお亡くなりになりましたが、好楽さんはますます絶好調です。ふたりが長くメンバーを続けてきたってことは、圓楽さんの見る目が確かだったってことですよね。大きな遺産を番組に残してくれました。それにしても、いくら番組の最初から関わっているとはいえ、出演者が人事をいじれたというのがすごいですよね。