高学歴は「労働者としての能力」「同僚としての能力」が低い?

そして、誤解を恐れずに炎上覚悟で言いますが、高学歴には、「専門家としてのスキルを身につけるために、労働者や同僚としてのスキルを捨てて専門性を身につけた人」が多いと思います。

例えば、「天才」や「秀才」という言葉を聞いたとき一般的にイメージする人物像は、学問に本気で向き合って、恋愛とか生活環境とか、娯楽とか遊びとか、そういったものを犠牲にして勉強する人ですよね。

そのイメージは概ね間違っていなくて、いい大学に入るために部活にも入らず、友達とも遊ばずひたすら勉強していた人もいますし、中には食事や風呂の時間まで勉強をしていた人もいます。もちろんそうした傾向は最近は緩和傾向にあり、勉強だけをひたすらやっていたという人は少なくなっている印象がありますが、しかし事実として、「自分は青春を捨てて勉強に時間を捧げてきたんだ」と語る高学歴の人は少なくありません。

食事中に勉強するイメージ 写真/Shutterstock.
食事中に勉強するイメージ 写真/Shutterstock.

 実際、高学歴の人を見てみると、小学3年生の時から中学受験のために週5で塾に通い、中高6年間も学校からの膨大な宿題を終わらせるために1日3時間・休日は9時間勉強し、高校2年生の3学期からは「今からは高校3年生の0学期だ、受験生としてひたすら勉強しろ」と言われ、睡眠時間を削って勉強し、移動の時間やトイレや風呂・食事の時間でもスマホで勉強し、もしそれでもうまくいかなかったら、もう1年間ただひたすら勉強する浪人生活を送って、そのあいだ受験勉強をしていなかったら得られたはずのさまざまな青春や社会経験を捨て、その結果として高学歴を得ている人が大半です。

つまり、「専門家としての能力」を手に入れるために、普通の人が部活をしたり友達と遊んだりして得ているはずの、ちょっとした対人スキルとかコミュニケーション能力を得る機会がなかった、「労働者としての能力」「同僚としての能力」を頭のよさの対価として捨ててしまった人が高学歴なのです。