ロックを生き方として、自分のものにしていく道を選んだ
そうした不遇の時期を経ることで、歌手としての限界を自覚したのかもしれない。
そのきっかけは、沢田研二がヴォーカルだったファニーズを発見したこと。のちのGS(グループ・サウンズ)の伝説的存在となる「ザ・タイガース」だ。
それまで世界の中心にいることしか考えていなかった人間が、自ら率先して新人バンドの裏方にまわって仕事を引き受ける。アーティストを発掘して育てるプロデューサーとして、見た目でなく、ロックを生き方として、自分のものにしていく道を内田裕也は選んだ。
古い芸能界のしきたりが強かった1970年代には、何とかその壁を乗り越えて、「ロック」という志を共有するアーティストが一つになろうと、獅子奮迅の努力をしてロックフェスに尽力した。
1974年8月、福島県郡山市で地元の有志が始めた「ワンステップフェスティバル」に協力し、キャロルやサディスティック・ミカ・バンドら日本中のロックバンド、海外からオノ・ヨーコとプラスティック・オノ・バンドを呼んだことで大いに注目された。
また、1975年8月には念願であった「第1回ワールドロック・フェスティバル」を主催。ジェフ・ベックやニューヨーク・ドールズを招聘し、当時としては日本最大級規模のイベントになった。
世界のロックアーティストと対等に話ができる数少ない日本人として、フェスの裏方という役割を務める一方で、俳優としてユニークな個性を発揮していったのもこの時期からのことだった。
内田裕也は、相手によって裏と表を使い分けるような大人社会の中で、器用に世渡りをするといったことができない人だった。
だからいつだって正攻法で、相手が誰であろうと自分で会って話し合い、言葉以上に「目の力」「全身の勢い」をぶつけることで、気合もろとも正面突破で前へ前へと進んでいった。