キロランケの出自と名前の由来
キロランケはアイヌの伊達男(だておとこ)という役割で活躍していますが、初登場してすぐに自分がアイヌではないことを話しており(6巻49話)、自分がアムール川流域の出身であることを示唆しています。ただ、野田先生の構想では彼は最初からタタール人だということになっていました。
タタール人というのは狭い意味ではテュルク系の一民族であり、広い意味ではロシア人を歴史的におおいに苦しめてきたモンゴル・チュルク系を中心とする人々の総称でもあります。
ロシアでは「タタールのくびき」という言葉もあり、13世紀前半から2世紀半にわたるモンゴル=タタールによるルーシ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配を指しています。ロシア人にとってはタタール人というのは自分たちを脅かしてきた異民族の象徴のような名前なのです。
したがって、キロランケがタタール人であるという設定自体は大変適切だと思うのですが、あいにく、大陸の東の果てであるアムール川流域にタタール人がいたという話はあまり聞きません。
野田先生は、17巻164話で、彼に「タタール人として生まれたが、樺太アイヌの血も混ざっている。曾祖母はツングース系の民族に借金のかたとして、アムール川流域に連れ去られた樺太アイヌだ」と言わせています。彼の何代か前の先祖がアムール川流域にたどりついて、そこでその樺太アイヌの女性と結婚したという設定にしたのでしょう。
なお、樺太アイヌが借金のかたにアムール川流域に連れ去られたというのは、史実として記録されていることで、江戸時代、樺太アイヌは山丹人(さんたんじん)と呼ばれるアムール川流域の人々と、毛皮交易をしておりました。それを「山丹交易」と呼んでいます。
アイヌはクロテンなどを獲ってその毛皮を山丹人と取引して、山丹錦と呼ばれる満州族の官衣や、絹織物などと交換していたのですが、毛皮が獲れないと山丹人は借金のかたにアイヌを連れ去ったということが、古文書に見えています。それを踏まえての設定ということになります。
さて、キロランケというのは実在のアイヌの人名を借用したものですが、これは彼が北海道に渡って来てから自分でつけた名前ということで、17巻164話で「俺の昔の名前は『ユルバルス』」と、本名を明かしています。
このキロランケのタタール語名を考えてくれというのも、この時点で野田先生から頼まれたことでした。といっても、私はアイヌ語の専門家であり、タタール語までは知りませんので、とりあえずタタール語の辞書を引いて、かっこよさそうな単語を探すことにしました。
最初に見つけたのは、「ライオン」を意味するアルスラーンですが、この言葉は勇者の名前として田中芳樹(よしき)さん原作・荒川弘(ひろむ)さん作画の『アルスラーン戦記』(講談社)でも有名ですし、『ナルニア国物語』のアスランも同語源で、あまりにも使い古されていますので、どうかなと思っていました。
すると、野田先生が「ライオンより虎がいい」というので、虎のタタール語名を調べたところ、ユルバルスという言葉が出てきました。実際に名乗らせてみたら、アルスラーンよりずっとキロランケにふさわしい、かっこいい名前に思われてきました。
ウイルクが「狼」なので、「虎と狼」というぴったりの相棒にもなったわけです。ただし、それはウイルクともども、連載開始当時においてはまったく想定されていない設定だったということになります。
文/中川裕