ナイキの勝利は
アメリカ自由主義と経済の勝利

2014年から巻き起こったハイプスニーカーブーム(入手困難なほど人気のモデルなどが登場したブーム)とは、つまり「ナイキ」ブームとイコールでもあります。なぜ、これほどまで「ナイキ」のひとり勝ち状態になったのか。先ほどの項目でエアマックス95ブームについて説明しましたが、さらに時代を遡って同社の歴史を振り返りつつ、国際政治の流れと絡めながら説明していきましょう。

「ナイキ」が創業したのは1964年のこと。当初は「オニツカタイガー」(現・アシックス)のランニングシューズをアメリカで販売する代理店として創業しました。71年からは「オニツカタイガー」から技術者を引き抜いて自社ブランドのランニングシューズの製造を開始していたものの、当時の「ナイキ」は何度もメインバンクから融資の継続を拒否されるほど、吹けば飛ぶような規模の小さな会社でした。

ただし「ナイキ」は当時から広告プロモーションが極めて上手でした。そのマーケティングへの熱意が描かれているのが、ちょうど2023年に公開された映画『AIR/エア』です。

この映画はバスケットボールシューズの市場で苦戦を続けている「ナイキ」が期待の新人だったマイケル・ジョーダンと契約し、エアジョーダンが誕生するまでのストーリーを史実をもとに描いたもの。しかし、当時のジョーダンは生粋の「アディダス」ファン。80年代の人気ヒップホップグループのRUN─DMCが「アディダス」のスーパースターをシューレースを通さずに履いてメディアに登場していたように、当時は「アディダス」こそが世界一のスニーカーブランドとして認知されていたのです。

さて、そこからどうやってジョーダンを説得したかは実際に映画を観ていただくとして、重要なのは、エアジョーダンの登場をきっかけに「ナイキ」のスニーカーがファッションアイテムとして人気を獲得するようになったこと。その人気ぶりは凄まじく、アメリカではエアジョーダン5の発売時には殺人事件まで起こりました。

そして現在の「ナイキ」のプロモーション戦略にも通底する重要な点が、ブレイク直前のカリスマを、破格の待遇でプロモーションに起用することが挙げられます。

当時のNBAはどん底だった70年代からマジック・ジョンソン*が登場し、シャキール・オニール*やマイケル・ジョーダンなどのスター選手がしのぎを削るNBAブームが起きはじめていた頃。

なぜ、弱小メーカーだった「ナイキ」がスニーカー市場のシェアの大半を獲得できたのか?「エアジョーダン」などのプロモーション戦略に通底する“勝利の方程式”とは_1
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そのブームはアメリカ国内に留まらず日本でもNBA人気の高まりとともに90年から『週刊少年ジャンプ』(集英社)で『SLAM DUNK』*が連載を開始し、一気にバスケットボール人口が増えたことを記憶している人も多いでしょう。

そんなNBAはアメリカのプロスポーツやエンターテインメント市場の成熟ぶりがうかがえる経済的な豊かさや自由の象徴でもあり、デニス・ロッドマン*をはじめとしたファッションリーダーを生んできた場所でもあります。〝エア〟のふたつ名の通りに高く跳び上がって飛ぶようにダンクを決めるマイケル・ジョーダンの姿に、当時の若者たちはアメリカの力強さを投影して試合を観ていたのです。

それに対し、エアジョーダンの登場以降の「アディダス」は苦戦を強いられます。というのも当時の欧州は経済面でも振るわず、テロも頻発していました。

英国ではサッチャー政権*下による賃金の低下や失業率の上昇が起こり、映画『トレインスポッティング』で描かれているように若者たちは未来に希望を失っていたからです。(ちなみに『トレインスポッティング』の主人公にして薬物中毒者のレントンが劇中で履いていたのは「アディダス」のサンバでした)

さらに「アディダス」や「プーマ」の母国であるドイツでは、89年にベルリンの壁が崩壊。ソ連の崩壊によって冷戦が終わると、一気に世界中に自由主義の波が押し寄せ、アメリカ一強の時代が訪れます。そこにアップル社やマイクロソフト社がシリコンバレーから頭角を現すと「アメリカ製こそが最先端である」と、みなが考えるようになったのです。

「ナイキ」がスニーカー市場のシェアの大半を獲得できたのは、冷戦終結によって国際政治と経済のバランスが大きく変わったことと無関係ではありません。