演じ続けた虚像
かつて池田は、「折伏」と称された布教活動の最前線に立って、活動を展開し、他の会員たちを引っ張っていった。だからこそ、参院選挙では、逮捕という試練にも遭遇した。あるいは、創価学会が一般の社会や日蓮正宗の宗門から批判や非難を受けたときには、その矢面に立ち、自らが責任を取ることで事態の収拾をはかってきた。
だが、晩年の池田は最前線に立っているわけでもなければ、矢面に立っているわけでもなかった。その存命中、創価学会に大きな問題が起こったとしても、池田が謝罪したり、全面的に責任を取ったりすることはなかっただろう。名誉会長という特殊な地位は、それを許さない。責任は、会長や理事長が取るしかなかった。
そして一方では、ここまで述べてきたように、池田の虚像化が進み、その実像はいっさい外に伝わらなくなった。晩年の池田に直接会ったジャーナリストもいない。結局は、田原による1995年のインタビューが最後になった。
「中央公論」2010年4月号には、茂木健一郎との「科学と宗教の対話」が掲載されたが、これは直接顔を合わせることのない往復書簡である。海外の著名人との対話も、晩年のものは、やはり直接会っての対談ではなく、往復書簡によるものだった。
その意味で晩年の池田は、創価学会の「象徴」に祭り上げられていたと言える。日本国の象徴である天皇が国事行為という形をとらなければ、現実の政治に関与できないように、池田も、創価学会の組織の運営に実際には携われなくなっていた。自分は監視され続けてきたという池田の発言には、そうした状況が反映されていたように思われる。
池田は、創価学会の精神的な指導者、各機関の先見的な創立者、平和思想家という役割をひたすら演じ続けた。創価学会の組織から、そして膨大な数の会員たちから望まれるままに、名誉会長という役を演じきったのである。
それは、池田に限らず、組織の頂点に君臨しているかのように見える独裁者、権力者に共通して言えることだろう。本人は、それが実像ではなく虚像であるとわかっていても――当然、わかっているはずだ――、そこから逸脱することは許されない。虚像が会員たちを鼓舞し、こころの支えになっている以上、それを崩すわけにはいかないのである。
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