“日本のロックの夜明け”が見えてきた
しかし今でもそうだろうが、名もなきミュージシャンにお金を払ってまで聴きに来る客は数少ない。だが、ライブが終わった後の居酒屋営業では演者も打ち上げとして店に残り、朝まで酒を飲む。お客さんがそれに交わり、演者と一緒に飲むのを目当てに来店するようになる。
その結果、お客さんが入り始めて店は黒字となり、当日のライブでどんなにお客さんが少なくても居酒屋で稼いでいるので、儲けのないライブでも続けることができたのだ。私には儲からないライブをやめようという発想はなかった。
その一方で、当時の私は「急がなくては」と常に焦っていた。「このままうかうかしていたら、ロフトは今のロックのスピードについていけない。私たちが築いてきたロック・シーンをなんとしても先頭で切り開いていくんだ」と肝に銘じた。
毎日が熱い気持ちだった。全国から押し寄せてくる新しいバンドの斬新な演奏に感動していた。実に楽しかった。ささやかではあったが、「日本のロックの夜明け」が見えてきた。
そして荻窪ロフト誕生の3カ月後に高円寺に次郎吉、吉祥寺に曼荼羅、新宿に開拓地、約1年後に渋谷に屋根裏が誕生して首都圏におけるロック文化の礎が出来上がった。こちらから特に声をかけなくてもロフトに出演したいというバンドは全国各地からどんどん集まってくるようになった。だが、毎日ライブをやれるほどではなかった。バンドもお客さんもまだまだ少なかった。
私は断固として、店の経営を維持するために週3日限定のライブにこだわっていた。
文/平野悠
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