「ブッダ」と「仏教」の関係

関連して、ふたつめの問いが生まれる。清水は開祖である「ブッダ」と、その後に積み上げられた「仏教」の関係をどのように定義しているのか。

前段で、評者は「ブッダ/仏教」と書いた。評者は、現時点で確認可能なブッダの言葉や思想だけを仏教だと定義するのではなく、ブッダの名に積まれた誤解や架上【3】の歴史を含めて仏教と見做している。つまり、仏教が伝播したそれぞれの地域や集団の歴史において、文化的正統性が確立されている場合には、誤解され、架上されたブッダや仏教を「誤解され、架上されたまま受け取る」立場である。

では、清水は? 彼が〈神話のブッダ〉を認め得るケースとして挙げている例示ははなはだ心許ない。

〈インドでカースト制度の撤廃に尽力したアンベードカルは、差別撤廃の思想的根拠をブッダの教えに求めた。アンベードカルの仏教理解は、必ずしも公平で客観的なものではなかった。しかし、彼が構想した平等主義者という「神話のブッダ」は、たとえ歴史上存在したことがなくても、間違いなく現実世界を動かす原動力になったのである〉【1】

ここにきて倫理を持ち出すのは、奇妙だ。差別撤廃の思想的根拠になるという理由で「誤読や架上もよし」とするのなら、本書の快刀乱麻はたちまち水泡に帰してしまうのではないか。ポリティカル・コレクトネスが免罪符になるなら、四海平等を謳う天上天下唯我独尊も、男女平等説も、結局は認めざるを得なくなる。

撮影/Sean Guerrero
撮影/Sean Guerrero

次作への期待

そして、ふたつの問いに応えるには、必然的に三つめの問いへの応えが求められるだろう。著者が拠って立つ世界――すなわち、本書の叙述の属する世界は――「信仰を排した仏教学の世界」なのか「信仰を包摂する仏教学の世界」なのか。二元論ではなく、階調を知りたい。

それを語るためには、著者自身の信仰の告白が欠かせないはずだ。告白なしでも、ふたつの仏教学の世界を峻別することは可能だが、自らを〈仏教者〉と名乗り、本書を〈名もなき菩薩たち〉【1】に捧げるのであれば、自身の信仰心と研究の相克について腹の底を割って ほしい。

以上三つの問いから、期待される次作の主題がある。評者が熱望すると言い換えても構わない。原始仏教の専門家である清水が、日本の歴史と文化の根幹にかかわる大乗仏教にどのような評を下すのか。

おそらく、彼は言葉を持っているだろう。だからこそ、ぜひ読みたい。中村元や五来重、佐々木閑や島薗進といった先達が積み上げてきた一般書における議論の枠組みを、新たな次元に導く書き手の登場を言祝ぐのは、そのときだ。

【1】『ブッダという男』より引用。
【2】『ブッダという男』を参照。
【3】学説としての「加上」の意ではない。

#1 アル中のように酒を求め、日々深く酔っぱらう椎名誠と福田和也の共通点
#2 最強のボクサー、井上尚弥の〈言葉〉はなぜ面白くないのか?

取材・文/藤野眞功