「ブッダはそんなことを言っていない」

じつは、この新書において、著者の真意を十全に汲み取ることは難しい。知識も情熱も、そして腕も飛び抜けているはずなのに、「It's a private」が過ぎるからだ。筑摩書房には、ただちに次作のオファーを出してもらい、下記の三点について暗幕を取り払っていただきたいと切に願う。

まず、最初の一点。

文中にしばしば差し込まれる、引用部のような書きぶりから察するに、著者の基本的な立場は「原典主義」である。

〈ブッダが生まれたときに呟いたとされるこの言葉【天上天下唯我独尊/評者註】は、文字通り受け取れば、「この世で自分こそが尊い」という意味であり、現代的な価値観からすれば傲慢もいいところである。(…しかし…)初期仏典を素直に読み、歴史的文脈を考慮するならば、ブッダが「この世で自分こそが尊い」と宣言することは当然なのである。

ここで、逆に考えてみてほしい。神格化されていないブッダを追い求めるのであれば、現代的な価値観からしてブッダは傲慢であってもよいのではないだろうか。むしろ「ブッダは自分が一番偉いと公言して憚らない、現代からすれば傲慢な人間だった」と結論づけるほうが、仏典の言葉とも合致しており、よほど批判的で客観的ではないだろうか〉【1】

〈実際に初期仏典を読めば明白であるが、ブッダが現代的な水準で生命を尊貴し、戦争に反対していたと読み取ることはまったくできない。むしろブッダが平和論者であるかのような言説こそが、現代的な価値観に基づいて初期仏典を解釈してしまった結果なのである〉【1】

小気味いい裁断だが、全体を通じて筆鋒が鈍らない箇所がないわけでもない。それを誠実さの表れと採るべきか、迷いと採るべきか。清水は「ブッダはそんなことを言っていない/初期仏典に書かれていない」という太刀筋で錫杖を振り回し、多くの〈仏教者〉をなぎ倒してきた。にもかかわらず、この本には、通奏低音として相反するフレーズが流れているとも言えるのである。

ブッダは本当に差別を否定し、万人の平等を唱えた平和論者だったのか−いったい何者で、何を悟り、何を語ったのかに迫った革新的ブッダ論【〈ノンフィクション新刊〉よろず帳】_3

〈人々から信じられてきたブッダの姿こそが、人類に大きな影響を与えてきたという点で、史的ブッダよりも重要ではないでしょうか〉【1】

この、担当編集者の言葉に呼応するかのように、本書に差し込まれた一節。

〈古代から現代にいたるまで、「歴史のブッダ」ではなく、「神話のブッダ」こそが人々から信仰され、歴史に影響を与えてきた(…)今を生きる我々が、伝統的解釈を否定して、初期仏典から「歴史のブッダ」と名づけられた「神話のブッダ」を新たに構想することは、決して無意味な営為ではない〉【1】

本当にそう信じるのであれば、清水はある場合においては、ブッダが認めていない、初期仏典に書かれていない事柄であっても「それもブッダ/それも仏教」だと認め得るのだろうか。これが、次作での応答を期待する最初の問いである。