現実とフィクションのせめぎ合い
ここで少し話を転じよう。
第一話から魅力的な登場人物が数多く登場したが、中でも異彩を放っていたのはユースケ・サンタマリア演じる安倍晴明だろう。なにしろこのドラマで一番最初に登場するのが彼なのだ。
一般的に安倍晴明と言えば、摩訶不思議な力を使い、式神を呼び出し、鬼と戦う魔法使いのような人物をイメージされているかもしれない。
だが『光る君へ』の安倍晴明は、常に寝不足で目の下に大きなクマを作り、神経質そうに巻物を繰っている。
実は史実に照らし合わせると、この安倍晴明のほうが実情に近いのだ。というのも、陰陽師というのは、先ほど述べたような超常的な力を操るスーパーマンではなく、災異や土木工事、暦作成に際して、天体や地形を読み解く公務員だったからだ。となれば当然、実直で地道な作業が要求されるし、出世欲も人並みにある。『光る君へ』の晴明は政治的な駆け引きにも聡い。
彼はさまざまな知識と観察に基づく占い(解釈)という力で、世界を理解しようとするのである。
なぜ晴明がこれほど印象的なのか。あくまで現段階での私見に過ぎないが、物語全体のテーマに通底するからではないかと考えている。
それは「現実と虚構(フィクション)のせめぎ合い」だ。
晴明が「占い」という虚構によって現実を理解し、掌握しようとするのと同様(あるいは対照的)に、まひろは「物語」という虚構で現実に立ち向かおうとする。
それが先述した、三郎に対する作り話である。
三郎から「なぜ女子なのに漢文がわかるのか」と問われ、彼女は即座に作り話で応酬した。
これは単なる悪戯心だろうか。
そうとも考えられるが、父の為時から「漢文に造詣が深くても男子でなければ……」というほぼ同趣旨のことを言われた際に、複雑な表情を浮かべていたことを思い返してほしい。
この時、まひろは自分を納得させるために物語を紡いだのではないだろうか。
現実に立ち向かうために、自分が漢文を理解できる正当性を持つ物語を練り上げ、再び同じ問いを投げかけられた際にその物語で応答した。実際、それによって一度は納得できたはずだ。
しかし、彼女は自分の物語を信じ抜くことができない。しばらくしてから三郎と再会したときに、まひろは自分が嘘をついていたことを告白する。作り話を信じるなんて「馬鹿」だと、故事まで引用して。
では、まひろはこのまま現実に敗北してしまうのだろうか。
もちろんそんなことはないだろう。そうでなければドラマとして成立しない、という無粋な回答はもちろんだが、『源氏物語』に次のような一節があるからだ。
歴史(事実)には一面的な記述しかないが、物語にこそ筋の通った詳しいことが書いてあるのでしょう。
(原文)神代より世にあることを、 記しおきけるななり。『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ
『源氏物語』「蛍」
『源氏物語』の「蛍」巻では、光源氏による物語論が展開される。
物語の価値に対して疑義が呈されながらも、物語の価値や意義が強調されるのだ。
物語を信じることは難しい。現実のほうが強く、物語は脆いからだ。
だが、歴史に残る最高の虚構『源氏物語』を紡ぐまひろは、物語の持つ力や価値に対して何度も逡巡を繰り返しながら、徐々にこの地点に到達するのではないだろうか。