鹿鳴館時代には当時、首相職にあった伊藤が
戸田伯爵夫人の極子(岩倉具視の娘)に暴行
可哀想なのは井上だ。井上にしてみれば、伊藤と同じ長州出身とはいえ、自身には関係ない話なのだが、黒田にとっては井上はにっくき伊藤の仲間。「伊藤一派許さん!」と殴りこみにいったというわけだ。もはや、暴力団の抗争さながらである。
暴走機関車のような黒田だが、黒田も黒田で意外にセコく、この頃長州どころか政界のドンになっていた伊藤や、同じく長州閥で陸軍を統括していた山県有朋にカチコム度胸はなく、「長州でも井上ぐらいなら、大丈夫かな」と計算ずくで酔狂を演じた可能性が高い。
いっぽう、黒田の前に立ちはだかった伊藤だが、彼も酒好きで有名で、日本酒を特に好んだ。伊藤は1880年代前半、40歳を超えた頃、憲法の調査と策定に動き出すが、政府内で理解を得られず苦しんでいた。そのいらだちもあり、この時期、神経症に陥り、深酒に走る。毎夜、1升の酒を飲むことで、ようやく寝付けたという。酒を控え始めたのはそれから約20年後の還暦手前。1899年5月、57歳の時に旅先から妻に日本酒は1滴も飲んでいないと報告している。
余談だが、伊藤は酒以上に女性好きで知られる。「箒」のあだ名を付けられていたほどだ。これは、掃いて捨てるほど関係を持っている女性がいることを意味した。明治天皇にたしなめられたこともあるというから、いかに度を過ぎていたかがわかるだろう。
鹿鳴館時代には当時、首相職にあった伊藤が戸田伯爵夫人の極子(岩倉具視の娘)に暴行したとされるスキャンダルを起こす。これは、東京日日新聞が政府高官のスキャンダルを報じたのが端緒となった。
記事は、若い貴婦人が髪を振り乱した半狂乱の体でバタバタと鹿鳴館から駆けてきたというものだ。彼女は客待ちしていた車を呼びとめ、乗るなり幌を深くおろし、とある伯爵家の前で降りたという。
単なる憶測記事のようにも映るが、娯楽が少ない時代だけに、いくつかの続報もあり、人々の野次馬根性を刺激するには十分な材料だった。伊藤の女好きの悪評もあり、伊藤が伯爵夫人を暴行したとの噂は八方に広がり、警視総監が調査を指示する事態にまで発展する。