子どもをあらゆる暴力から守ることを政治の原則とすべき
私は2018年7月に、埼玉県東松山市の市長選挙に立候補した。自公推薦の現職候補が圧倒的に強く、無投票になりそうだったからだ。その地域で、政治的関心を持つ市民のグループが何人かの人に立候補を打診したが断られて、最後に私にお鉢が回ってきた。
結果はトリプルスコアの惨敗であったが、幸いにも供託金没収は免れた。敗因は明らかで、そもそも私は一年しかそこに住んでおらず、知り合いも全くおらず、その上、あらゆる組織からの支持を得られず、しかも私を担いだ人々と喧嘩して、公示日一週間前に、全員を後援会から放逐してしまったからだ。
それでも、なぜか女優の木内みどりさんがボランティアで一週間滞在して応援くださり、また、私の立候補が報道され、全国から多大なご寄付とご声援とをいただいて、馬と音楽とを中心にした楽しい選挙を展開できた。
また、その話が発端となって、翌年にれいわ新選組から参院選に出た時には、あの原一男監督がドキュメンタリー映画『れいわ一揆』を制作してくださった。この映画のおかげで私は東京国際映画祭のレッドカーペットを歩いたり、ニューヨーク現代美術館で原監督とともにスピーチしたり、という光栄に浴した。
この二回の選挙の中心思想は、「子どもを守ろう」ということであった。私は、本当の政治的対立軸は、
子どもを守るか/大人を守るか
にあると考えている。全ての子どもをあらゆる暴力から守ることを政治の原則とすべきなのだ。原則というのは、あらゆる政策の可否を判定する基準のことである。
たとえば、文教費を増やすある政策が、子どもダシにして生活を成り立たせている教育関係者を守ることにはなっても、子どもを守ることにはならないなら、棄却されるべきである。防衛費を増やす政策が、本当に子どもを守ることになるというなら、それは認められるべきである。そういう政治的判断の基準として、すべての子どもをあらゆる暴力から守る、という原則を設定すべきだ、というのである。
この段階で、私は迂闊にも、兵庫県明石市の泉房穂市長が、子どもを中心にした市政を展開していることを知らなかった。しかもその泉氏が、私が強い思想的影響を受けた石井紘基の系譜を引く政治家であることも知らなかった。もし、明石市の例を挙げて選挙戦をやっていれば、もう少し良い勝負ができたかもしれない。