そもそも鈴木清順監督ってどんな人?
鈴木清順の名が世に出たのは、日本映画界がまだスタジオシステムだった(松竹・東映・大映・新東宝・東映の5社が専属の監督・俳優を抱えていた)1956年。5社がそれぞれ年間100本もの映画を製作していた時代に、日活から『港の乾杯 勝利をわが手に』(1956)で監督デビューした。
量産されるプログラム・ピクチャーの中で、毎作ひと目で誰の作品かわかる個性的な映画を作り続けた反骨の人・鈴木清順の軌跡は、トラブルの歴史でもあった。
デビュー翌年、『8時間の恐怖』(1957)というサスペンスをなぜかコメディに仕上げ、半年間仕事を干されたのを皮切りに、新人俳優・渡哲也を売り出すために歌謡アクションとして企画された『東京流れ者』(1966)を、アヴァンギャルド映画に仕立てて会社に激怒された。
続く『殺しの烙印』(1967)では、宍戸錠扮する殺し屋を“電気炊飯器でお米が炊ける匂いにエクスタシーを感じる変態”という設定にしてしまい、とうとう日活社長から「わけのわからない映画を撮る監督はいらない」と解雇されてしまった。
その後、会社の枠を超えて解雇無効を訴える映画人・ジャーナリストらによる「鈴木清順問題共闘会議」が結成され、丸10年間の裁判で争い、ようやく『悲愁物語』(1977)で現場復帰が叶う。すると、スタジオシステムが崩壊し、角川映画をはじめとする新興勢力が出てくるなど様変わりした映画界の中にあって、俄然、余人には真似のできない個性で最注目映画作家の座へと躍り出たのだ。