生きることはタイパが悪い

消費者の「損したくない」という価値観に対して、外部からの刺激が「答えを知りたい・近道が欲しいという需要の加速」「無駄なモノは悪」「情報の信憑性よりも大多数がそれを支持しているかを重視」という志向を強める。

昨今では前述したように、大学、恋愛、結婚、子育て、それに伴うイベントに対して「タイパ」や「コスパ」が悪いといった意見も散見されるようになった。

もちろん、一人で生きていけば、費用も時間も一人分で済むが、他人と生活することはコストがかかる。

また、大学をただの就活予備校として見るのならば、入社後の給与水準が昔よりも期待できない場合、しっかり働いて、しっかり稼いで、しっかり休むといった遠洋漁業のような働き方のほうがタイパがよく、大学に行くこともタイパ・コスパが悪いと判断されてしまっても致し方ない。

読者の皆さんも感じていると思うが、生きるということはそもそもタイパやコスパが悪いことが多い。しかし、だからこそ予測不可能な連続性をこなしていくことそのものが人間らしさであり、生きていく業であると考える。

もちろん、このような考えが持てるのは自身が生理的にも精神的にも満たされているからであり、さまざまな理由でそのような境遇に現在身を置いていない人にとっては、このような考えこそ綺麗事であるということは十分に理解している。

一方、お金さえかければ、私たちの身の回りにあることはたいがい効率化でき、道具的価値や機能的価値に支出することで、自身の労働を道具やサービスに委託することができる。

時間に追われた生活のなかで、時間を短縮できたり、労力を省けるならば、大いに活用し、可能な限り自分のための時間を作るべきである。

「早く答えが知りたい」「近道がほしい」…タイパにこだわる人が絶対手に入れることができない「消費すること」で生まれるストーリーとは_3

また、「○○の状態になること」を目指したり、「したつもり」になったり、「ファストな経験」を求めたり、他人に何者(オタク)であるか示すことに注力するなど、交流的価値の追求においては「じゃないモノ」が消費される。それらは主体性を持って消費をしないからこそ、タイパが求められているのだ。

これも、ファスト映画などの著作権を侵害した違法な行為を除けば、彼らの目的は消費による直接効用ではなく、それぞれの目的を達成するうえでの手段なのだから、そこに愚直に時間やコストをかけずにタイパを追求し、その時間の余剰が自分のため(精神的充足につながる消費)に使われれば、時間を短縮したことに意義が見出せる。

しかし、労力の時短にせよ、「じゃないモノ」の消費にせよ、何をどれだけ、どのように、どのくらいのコストをかけてタイパを追求するかは、その人の経済力、時間の余剰、自身の身体的能力など、その人が身を置く環境(状態)と、その人がその消費に対して「タイパ」を追求する必要性を見出しているかどうか、という2つの要件が関わってくる。

洗濯機を使わずに洗濯することも、ダイエットにじっくり時間をかけることも、もともと興味がないドラマを勧められても時間をかけて全話視聴することも、それに対してどの程度尽力するのか、どの程度効率化を目指すかのイニシアティブは常に消費者側にあるのだ。

言い換えれば、タイパやコスパの追求も消費者側に決定権がある。

だからこそ、オタ活で興味対象全般を消費するのではなく、手間やコストを省くこともあれば、節約した分ライブに直接足を運び、そこでその瞬間を満喫するという決定もする。

また、前述した通り、譲れないモノに関して、私たちは消費プロセスを含めて大事なモノである(特別視している)ということを意識し、その消費から生まれるストーリーを大切にしたいのだ。