弟子の最後の礼儀は、師匠に挑戦し、乗り越えていくことにある
私は一度だけ、スーフィズムの世界に直接ふれたことがある。本書でも言及されているが、ヌスラト・ファテ・アリー・ハーンの公演を見に行ったことがあるからだ。
ヌスラトは、パキスタンのカウワーリーの伝説的な歌い手で、1990年には、プロデューサーのマイケル・ブルックとの共作アルバム「マスト・マスト」が世界的に大ヒットした。私もこのアルバムを通してヌスラトの存在を知ったのだが、公演では次第に盛り上がっていく即興演奏の迫力に圧倒された。大学の授業でも、イスラームの宗教音楽を紹介する際に、クルアーンの朗誦とともに、ヌスラトの演奏を取り上げることがある。
イスラームは、私たち日本人にとってはまだ遠い世界であり、スーフィズムについても、トルコの旋回舞踏のことしか頭には浮かんでこないだろう。
しかし、本書を読んでみると、スーフィズムを通すことで、イスラームという宗教が、一気に私たちに理解しやすいものになってくる気がした。
スーフィズムと言えば、「イスラーム神秘主義」と翻訳される。神秘主義だと、それこそ神秘のベールにつつまれた特殊な宗教的実践としてとらえられてしまいやすい。だが、本書の副題にある「修行道」として見ていくと、日本の伝統的な、あるいは現代的な文化と極めて近いことが理解されてくる。
著者は、とくに日本の漫画に登場する「先生」という存在に着目している。どうやら先生は翻訳が難しいことばのようだが、修行を実践していく上での指導者を意味する。漫画でもそうだが、日本の伝統文化でも、先生にあたる「師匠」について学ぶことが決定的に重要であり、それはスーフィズムでも同じだというのだ。
実は、この書評を依頼される前、面識のないトルコ在住の著者から、世阿弥の『風姿花伝』をトルコ語に翻訳した本が送られてきた。私の義弟がトルコ人という以外、送られた理由が分からなかったが、本書を手にとってすべてが氷解した。『風姿花伝』もまた、能楽という修行道における指導書にほかならないからだ。
スーフィズムでは、弟子の最後の礼儀は、師匠に挑戦し、師匠を乗り越えていくことにあるという。一度、狂言師の人間国宝、野村万作氏の話をうかがったことがあるが、狂言師は最初、師匠である父親のやるとおりに演じ、自分なりの工夫をするのは、父親が亡くなってからだと語っていた。修行道ではどこでも、父殺し、師殺しが求められるのだ。
私たちも、何か一つのことに打ちこんでいるなら、修行道を実践していることになる。そう考えれば、私たちも広い意味でのスーフィーなのかもしれない。
さらにもう一歩、スーフィズムに近づくには、旋回舞踏で知られるメヴレヴィー教団で食べられている食事を作ってみればいい。なんとそのレシピが、本書には掲載されているのである。
文/島田裕己
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