大国の干渉と民族運動挫折の歴史
世界が注目した1979年革命に至る歴史的背景として注目すべきは、激烈な民族運動の展開とそれに対する大国の介入が繰り返されてきたことにある。20世紀初頭の立憲革命(1905~1911年)がその最初の事例であると言える。
当時のイランは19世紀以来、英露による二極支配に悩まされてきた。2度のロシアとの戦争に敗北し、領土割譲だけでなく、不平等条約の締結もロシアに強いられた。
また、英国との戦争にも敗れたイランは19世紀後半には、英露に鉄道・電信線の敷設、鉱山開発、銀行開設など、さまざまな利権譲渡を余儀なくされた。そうした「売国的政策」に依拠しながら、時にガージャール王朝(1796~1925年)は専制支配を行ってきた。立憲革命は、憲法制定と議会開設により祖国の危機的状況を打破しようとした民族民主主義革命として知られている。
しかし、イラン支配をめぐって競合する英露は座視していたわけではなかった。当時、オスマン帝国(1299~1922年)との関係強化を通じてイランに触手を伸ばし始めたドイツに対抗しようと、立憲革命に当初好意的だった英国が1907年協商によってロシアとの間でイランの国土を勢力範囲分割した。
その機に乗じ、ロシアの後援を得た国王率いる王党派は、反革命クーデターを実行に移した。これにより復活した専制支配はしかし、立憲派市民軍の手で、わずか1年で打倒されたものの、それで終わらなかった。
1911年にロシアはイランが採用した米国人財政顧問M・シャスターの能免を要求し、さもなければ軍事侵攻すると脅しをかけたのである。英国もそれを黙認し、イラン政府は抵抗の構えを崩さない議会を自らの手で閉鎖し、その結果立憲革命はあっけなく幕を閉じた。
それから40年後の1951年に発生した石油国有化運動も同じく大国の介入で葬り去られた。モハンマド・モサッデグ(1882~1967年)指導下の「国民戦線」(NF)を中心に展開されたその運動は、1901年の利権(1932年に新契約締結)を有するAIOC(アングロ・イラン石油会社)が長年膨大な利益を上げてきた石油資源の国有化を目指した。
その運動に対して、AIOCの大株主である英国政府は、イラン石油に対する国際的なボイコット包囲網を敷き、さらにソ連のイラン進出を恐れる米国(D・アイゼンハワー政権。1953~1961年)の協力を仰ぎ、陰謀を立案した。
1953年8月、クーデターが実行に移され、モサッデグ政府は打倒された。そこでは、CIAが用意した工作資金10万ドルで雇われた暴徒に国王支持の軍部が協力した。
表面上は、権力を強化した首相と国王との間の権力闘争が装われたが、実態は米英両国が直接関与した露骨な内政干渉であった。首相モサッデグを含む主だったNF関係者2000人以上が逮捕され、イラン石油は米系石油企業も参入した国際合弁会社によって、以後管理・支配される。
もちろん、イラン内政への大国の干渉は、決してそれらに止まらない。第一次、第二次世界大戦ともに、イランは「厳正中立」を宣言したが、前者では国土は同盟国と協商国間の戦場と化し、後者では英ソ共同進駐を受け、国民は塗炭の苦しみを経験したことも知られている。
また、前者の途中に発生した10月革命で、ロシアがイラン支配から一旦離脱すると、戦後英国は1919年(英・イ)協定を押しつけ、単独支配を目論んだ。それは、テヘラン中央政府に対峙する北部2州での革命政権の成立という深刻な政治危機をもたらした。
地政学的重要性に、20世紀に新たに加わった豊富な石油資源の存在から、イランは南下政策を採用するロシア(ソ連)と、自らの植民地支配の保持・拡大のために対抗する英国が競合し、時に協力し合う歴史のなかで、従属を強いられてきた。
そうした状況の打破を目指した民族運動も、それら大国の介入で潰された。誰も、そうしたイラン現代史の流れを否定することはできない。