19歳で右足膝下切断。とにかく出口を見続けていた
大学は、早稲田大学商学部に入学。小学6年生から憧れていたチアリーディングの夢が実現します。充実した大学生活を過ごしていた19歳の冬、長く続いた右足の痛みが気になり病院へ。結果、骨肉腫と診断されます。3カ月の入院を経て、右足膝下を切断する手術を受けます。著書『ラッキーガール』(集英社文庫)には、当時を以下のように綴っています。
———「どうして神様はここまで私を苦しめるんだろう」
———「病気が何かの間違いであって欲しい」
そんな状況でも、チアリーティングの仲間や先生に病気を自分で伝え、実家に戻らず東京で治療する決断をします。
「当時の自分が、なぜあれほどまで強くいられたのか。今振り返っても不思議です。想像を絶する辛さでしたが、とにかく不安が大きかったんです。治療を始めて1カ月も経つと、抗がん剤治療で髪が抜け落ちる。一人家で泣くこともありましたが、そこで気持ちを整えて、また病院に戻りました。暗いトンネルの中にいるようで、いつこれが終わるのか、義足をつけた人生はどうなるんだろうと不安でした。とにかく出口を見続けていた気がします。そのために、まず目標を決めました。最初の目標は今までの普通の生活、大学生活に戻ることでした」
治療後、再びスポーツをすることで生きていくと決意
自分の弱さと向き合ったことで、どう生きていくかの答えを見つけたと言います。それが、再びスポーツをすることでした。大学に復帰した後は、障害者スポーツの存在を知り、水泳を再開。そこで義肢装具士の臼井さんと出会い、走ること、走り幅跳びに挑戦します。大学を卒業する2004年には、走り幅跳びでアテネパラリンピックに内定しました。
「大学は休学せず、入院中もテストだけ出たりレポート提出に変更してもらったりと、単位を落とさないように努力しました。留年も考えましたが、同級生が変わってしまうのでできれば4年で卒業したい。かつらをつけながら就職活動をしていました。就活は、長所と短所を考える時でもあります。就活と自分が立ちあがろうとするタイミングと重なったこともあって、過去を振り返る良い機会でもありました。そんな時に出会ったのが“やってみなはれ”のチャレンジング精神を掲げたサントリーでした。将来が描けず漠然としている中で、好きなことに挑戦できること、いろいろな職種から仕事を選択できるところに魅力に感じました」