秀吉は、羽柴家の将来を徳川家の協力に託した
そしてその秀忠は、文禄四年九月(十七日とする所伝がある)に、またも秀吉の取り成しによって、秀吉の養女とされた浅井江(一五七三〜一六二六)と結婚する。
江の姉の茶々(一五六九〜一六一五)は、秀吉の別妻で、嫡男秀頼(当時は幼名拾、一五九三〜一六一五)の生母であった。
すなわち秀忠は、秀吉嫡男の母方叔母と結婚したのである。この時点で、秀吉には実子は秀頼しかいなかった。近親の一門衆・親類衆も、養子の小早川秀俊(木下寧々の甥)、養女婿の宇喜多秀家しかいなくなっていた。そうするとこれにより秀忠は、秀頼に最も近い親族の立場に位置付けられたことになる。
しかもこの結婚は、同年七月の秀次事件の直後にあたっていた。それにより羽柴家の後継者として、秀頼が確立されたのであった。秀吉はその秀頼に最も近い親族の位置に、秀忠をおいたことになる。
家康は依然として、親類大名の筆頭にして、かつ諸大名筆頭の立場にあった。秀忠はその嫡男であった。
これは秀吉が、秀頼の将来を、家康・秀忠父子の補佐に委ねようとするものであった、といってよい。そしてさらに、秀吉は死去に臨んで、秀忠長女の千と秀頼を婚約させるのであった。そうして秀吉は、羽柴家の将来を、徳川家の協力に託したのであった。
文/黒田基樹
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