いわば秀吉の政務における相談役
秀吉は家康・利家の進言を容れ、渡海を延期し、両者の連署状によって諸大名に事情を説明させている。さらに七月、秀吉は大政所の病気のため大坂に帰るが、その際に家康と利家は留守中の諸事を委ねられて、秀吉の代行を務めるのである。
こうした家康と利家の役割は、他の大名と区別された、「二大老」制ともいうべきものと評価されている。文禄四年七月の羽柴秀次事件ののち、家康・輝元・小早川隆景(一五三三〜九七)・利家・宇喜多秀家(一五七二〜一六五五)は、秀吉制定の「置目」への違反者について「糺明」と「成敗」にあたることになり、またこれに上杉景勝を加えた六人は、秀吉への訴訟において、六人での談合のうえで秀吉に取り次ぐ役割を担った。これがのちの「五大老」につながっていくことはいうまでもない。
六人のうち小早川隆景は慶長二年に死去したことで、「大老」は五人になった。そのうえで家康と利家は、「二大老」ともいうべく、他とは別格に扱われた。
利家はそうした役割により、慶長元年五月に権大納言に任官されて、名実ともに家康に次ぐ政治的地位を与えられている。利家は旧織田大名であったが、秀吉と複数の姻戚関係を形成する、有力な親類大名であった。その点でも、利家は家康に次ぐ存在であった。
両者は秀吉から諮問にあずかり、諸大名から二人で秀吉にはたらきかけることを期待されていた。両者の役割は、秀吉に直属する中枢機構として、広い職域にわたって活動が認められ、またそれを期待されたもの、とみなされている。いわば秀吉の政務における相談役というものであった。
文/黒田基樹
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