詩の言葉と小説の言葉の違い

恩田 私の松浦作品とのファーストコンタクトは『巴』でした。
松浦 あれを読んでくださったのですか。嬉しいなあ。あれはどこの出版社も今もって文庫に入れてくれない可哀そうな長篇小説なんです。
恩田 その次に読んだのは『半島』ですね。
松浦 そのあたりの作品は、書いていて楽しいこともあったかな。締め切り直前とか、それを過ぎてしまうあたりはやはり苦役、苦行になってくるのですが。
恩田 あの頃の作品は、まだ詩に近い感じでしたよね。『巴』は東京小説のつもりで書いた、とどこかに書いておられて、そういう側面も含め面白く読めました。最初にお話ししましたが、『方法叙説』は読み返すと腑に落ちるところがたくさんありました。どうやって書いてきたかという創作方法をご自分で説明されていて、ああ、なるほどと納得できて。
松浦 貧乏根性というのか、自分で自分を分析したくなってしまう。僕の駄目なところです。まあ恩田さんも僕も好きな物語というものがあり、何か「こういうもの」を自分で書いてみたいというのが出発点にあるという点では共通しているような気がします。
恩田 エドモンド・ハミルトンの小説『フェッセンデンの宇宙』の話も書かれていましたよね。
松浦 あれはものすごく面白いですよね。黄金期のアメリカSFのセンス・オブ・ワンダーが凝縮されているような短篇。
恩田 神の視点にガラス玉があって、ここに世界がある。その感覚に憧れるのはわかりますが、実際に小説に書くとなると、その視点を体験したいという気持ちになります。本当に見事です。
松浦 僕は幼い頃によく縁側に座って、ずっと庭の蟻を見ていたことがあるんです。ちょろちょろと巣穴に入ったり出たりする。『フェッセンデンの宇宙』のことを考えると、それを眺めていた長い時間のことをいつも思い出します。水木しげるが似たような趣向で「宇宙虫」という漫画を描いていますけどね。
恩田 詩は何歳くらいから読むことや作ることを始められたのでしょうか。
松浦 人並みに、中学や高校の現代国語の教科書に載っている高村光太郎や萩原朔太郎の詩を読むところから始まりました。僕なんかの青春時代というのは現代詩に力があった最盛期と重なるんです。当時からスターだった吉増剛造さんが今も現役で、八十代でも新作を書いておられるのは本当に素晴らしいことだと思います。僕がいちばん魅了されたのはやはり吉岡実の詩でしょうか。まず読むことがあり、そこから始まったという点では小説と同じです。
恩田 現代詩の新しいうねりの中で、自分でも書き始めたんですね。
松浦 そうです。僕が書きたかったのはまず詩だったんです。子どもは言葉を介して世界に足を踏み入れていって、他者や社会との関係を作っていかなければならないわけでしょう。ところがそういう社会化のプロセスがどうもうまくいかず、始終違和感を抱えている子どもだったんです。言葉との関係がどこかねじれていたというのかな。美のミクロコスモスとしての詩の言葉を磨き上げようというのは、そういうねじれを元に戻そうとする、一種のセラピー行為みたいなものだったのかなあと、今となっては思いますけどね。昆虫をコレクションして虫ピンでとめるように、自分の好きな言葉だけを集めて美しい構造体を作りたい、というか。ともかく詩は今でも書き続けていますけどね。
 批評や小説は、もう少し職業的な好奇心から近づいていった感じです。僕自身は、これは謙遜でも何でもなく、“おはなしの神様”に愛されている男では決してありませんのでね。
恩田 初めにも言いましたが、松浦さんの小説を読んでいると、ときどき「詩に帰りたい」という衝動を感じ取れるんですね。
松浦 それは鋭い読みだと思います。
恩田 読んでいると必ず強い反動のような場面があって、やっぱり松浦さんは詩がメインなんだと感じて、引き寄せられることがあります。『人外』なんて、ああこれは詩だなと思いながら読みました。
 詩で使われる言葉と小説の言葉は、松浦さんの中で全然違う種類のものなのでしょうか。
松浦 今もちょっと言ったように、詩は自分の美意識とテイストで集めてきた言葉を、ある形に組み上げて、しかもそこに音楽的なリズムがあるように配置する。それこそフェッセンデンの小宇宙みたいにして、一種のユートピア的な小宇宙を作りたいという、何かそういう衝動なのかなと思っているんです。濾過を重ねて純粋言語の結晶を析出するというのか。
 他方、小説というのは詩とはまったく違って、物語への欲望から書き始めたものだし、「詩的」な文章を綴りたいという気持ちは全然ありませんでした。もっと流れるような滑らかな文章、できれば“おはなしの神様”が乗り移って語ってくれるのをそのまま聞き書きするような、そういう文章を書きたかった。古井由吉さんは、むしろあちこちに瘤や結び目があるような、ごつごつした詩的文体を追求していたわけだけど、僕はそういうことはしたいという気持ちはなかった。もっとも、自分が二十代の頃に書いた詩を読み返してみると、実は案外、物語的な欲望というか、物語へのテイストが滲んでいたことを、後年になって発見して、そうだったのかと思ったりしましたけどね。
 恩田さんは、小説以外のジャンルに手を染めてみようかと思われることはないんですか。
恩田 ないんです。やっぱり小説を書いていきたい。結局、書きたいというのは、読みたいという気持ちの延長にあるもの。「作者は読者のなれの果て」という言葉がありますが、それを絵に描いたような感じなんです。つまり、こういう小説を読みたいという欲望が強くて、それで書いている感覚です。
松浦 恩田さんは評論家が書くような批評はあまり書く気がないでしょうけれど、実は非常に透徹した鑑賞眼を備えた読み手でいらっしゃる。『土曜日は灰色の馬』に三島由紀夫についての文章が収められているけど、あれは真芯をついていると思いました。三島論は世の中に山のようにありますが、ああいった形で三島にアプローチした批評は一つもないと思います。
恩田 それは嬉しいです。
松浦 「葉隠」がどうだとか「唯識論」がこうだとか、こちたきことを言う人がいろいろいるけれど、三島の文章を素直に読んだら絶対、恩田さんの書かれているようなことになるはずです。しかもそれを遠慮会釈なくズバッと言っている。読み手としての力量をものすごく持っておられる方だなと思いました。そういう透徹した眼で読んでこられた膨大な物語の記憶を、ご自身の小説に流し込んでいらっしゃるわけでしょう。
恩田 本当にただ自分が「読みたい!」という気持ちなんです。
松浦 あれだけの著書があり、今も様々な連載を現在進行形でもっておられて、かつ他人の本も、僕みたいな者の本まで旺盛に読んでおられる。どうやって時間を捻出しているのか、本当に謎(笑)。
恩田 いや、書くことから逃避して読んでいる時間も結構あるんですよ。

子ども時代に夢中で読んでいた物語

松浦 さっき横溝正史の話が出ましたが、恩田さんはきっと赤江瀑の小説なんかお好きなのではないかな、と。
恩田 大好きです。大学生のときにずっと読んでいました。あと連城三紀彦さんの小説もよく読みました。
松浦 赤江瀑はいいですよね。きっと恩田さんの趣味だろうなと思いました。
恩田 松浦さんは子どもの頃はどんな本を好んで読まれていたんですか?
松浦 僕は小学校四年生の夏休みに、ドリトル先生物語に熱中して、何度も繰り返し読みました。六年生から中学生にかけては、アーサー・ランサム全集。
恩田 『ツバメ号とアマゾン号』ですね。
松浦 そうそう。「ランサム・サーガ」に耽溺して、僕はどうしてイギリス人に生まれなかったんだろう、と残念に思っていました。それから本格ミステリで、クリスティ、クイーン、ディクスン・カーとか。そこからSFに行って、『レベッカ』という感じです。
恩田 『ナルニア国物語』にははまらなかったのですか。
松浦 うーん、あれはね、もちろん面白かったのですが、そんなには熱中しなかった。ただ、洋服ダンスの奥に入っていくと異世界が広がっているという設定には魅了されました。
恩田 あれは本当に素晴らしいですよね。あと、時系列順に出版されていないというところにもしびれました。文学全集は一巻から順番に出るのではなく、ばらばらじゃないですか。『スター・ウォーズ』だって、いきなりエピソード4から始まっている。『ナルニア国物語』も時系列ではないところに、子ども心にとても惹かれました。あるとき急に前日譚みたいな話が出てくるとか。なるほど、こういうパターンがあるのかと。
松浦 自分の頭の中でもう一度構成し直すことで、大きな時間の流れの持続があることに気づいて、そうかと驚くことになるわけですね。僕は大人になってから『指輪物語』を読んで圧倒され、それとの比較で『ナルニア国物語』がちょっと霞んじゃった感じなんです。それに『ナルニア』はキリスト教的世界観の臭みがちょっと鼻につくところがある。そこへ行くと『指輪』は完全に異教の世界ですから。
恩田 さすが言語学者のJ・R・R・トールキン。しかもあれは、指輪を取りに行くとか取り戻すのではなく、捨てに行く話じゃないですか。そこが見事ですよね。
松浦 そうそう。それと、捨てに行って、最後の戦いがあり、それがクライマックスなんだけど、その後「ホビット庄」へ戻ってくる帰り道の話が結構長々と語られます。あれが僕は本当に面白いと思うんだ。
恩田 でも、寂しいんです。アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』なんて、もっと寂しい。暗い話です。
松浦 『ゲド戦記』は本当に寂しいですよねえ。第四巻の『帰還――ゲド戦記最後の書』で完結したと思っていたら、ずいぶん時間を置いてから第五巻の『アースシーの風』が出て、それを機会に僕はまた第一巻の『影との戦い』からぜんぶ読み直しました。あれも素晴らしい作品だけど、あの暗さはねえ。ゲドもかわいそうだし。
恩田 あれだったら『闇の左手』のほうが救いがある。
松浦 ル=グウィンと言えば、『西のはての年代記』の三部作、『ギフト』、『ヴォイス』、『パワー』もありますね。最近初めて読んだんですが、やはり非常に面白かった。ところで、恩田作品で『指輪』や『ナルニア』や『ゲド』のようなテイストのファンタジーはあるんですか?
恩田 いや、ないですね。残念ながら、ああいう作品は書けないと思います。

ChatGTPに“おはなしの神様”はいるか

松浦 恩田さんは、何らかの激しいパッションに取り憑かれた人間に惹かれるところがあるでしょう。
恩田 惹かれます。そういった人は一体どのようにものを作っているのか、とても興味があるんです。だから、こうすれば面白い小説が書ける、いい脚本が書ける、というような創作についてのノウハウ本をつい読んでしまいます。松浦さんは読まれますか。
松浦 読まないなあ。もしかすると、今だとむしろChat GTPに相談するといいのかもしれませんよ。
恩田 聞けば教えてくれるんでしょうか。自著を何十冊も読み込ませれば、何か作ってくれるとか。たとえば、「次の恩田陸の新作はどんな小説?」と問い掛ければ、それっぽい作品が生成される時代が来るのかなと。
松浦 先日、妻が面白がってChat GTPに「東京の吉祥寺を舞台に、富裕層と貧困層が対立する物語を書いてみて」と命じたら、二十秒くらい考えたあとに、短篇小説一つくらいの分量の言葉がばーっと出てきたんですって。
恩田 いきなりそんなに出てくるんですね。
松浦 登場人物にはちゃんと名前がついていて、「○○は悩んでいた」とか始まる。主人公は不動産業者という設定なんですって。貧乏な人と裕福な土地持ちの人が出てきて、一応もっともらしい物語が展開し、最後はハッピーエンドになるんだそうです。不動産業者を主人公に据えるという設定だけで、座布団一枚という感じじゃないですか。
恩田 それはうまい。貧困と富裕、両方描けますし。
松浦 なかなかやるなという感じですよね。今、文芸の世界でも新人賞の応募者がChat GTPを使っているか調べようがなくて、対処に四苦八苦しているんじゃないかと思います。一方、大学の先生たちはもちろん学生のレポートや論文の問題で悩んでいる。これから人類がChat GTPみたいな生成型のAIとどう付き合っていったらいいのか。これは大変な問題です。
恩田 でもAIの仕組みはよくわからないじゃないですか。それこそ将棋においても、なぜこの手を出してきたのか、そこまでの過程がわからない以上、すべてがブラックボックス状態なので、それで果たして理解しているといえるのかどうか。
松浦 そもそも「わかる」とか「思いつく」とか「考える」とか、そういうのはいったいどういう行為を意味するのかということ自体、大問題なんです。それにしても、たとえばChat GTPを使って、不動産業者を主人公にするというアイデアだけを得て、そのあとは自分の手で書き進めていったとか、そういう場合は作者のオリジナリティをどう判断するのか。不正というかずるをしたのか、それともたんに参考資料を使ったという程度のことなのか、そのあたり、濃淡の微妙なグレーゾーンの問題がいろいろ生じて、解釈が難しくなってくる。
恩田 創作がよくわからない未知の領域に入ってきているのを感じます。Chat GTPが学習したテキストデータの著作権はどうなるのかが問題になっているとよく耳にします。
松浦 しかしまあ結局は、AIを利用しつつ共存していくという方向にだんだん進んでいくんでしょう。
恩田 オマージュやパロディもどうなるかわかりませんし、すごい時代になったもんだなと思います。
松浦 恩田さんは、アメリカのテレビドラマが面白くないということを書いておられたでしょう。プロットとストーリーの問題です。『24―TWENTY FOUR』をはじめとする今のドラマは、気の利いた緻密なプロットを練り上げようとすることばかりに血道を上げていて、ストーリーテリングの魅力を忘れているんじゃないかと。本当にそうだと思いました。
恩田 そうなんです。『24―TWENTY FOUR』がどうしても最後まで見られなくて。
松浦 僕もあれは駄目だったんです。途中で投げ出してしまった。出発点の発想は実に面白いんだけど。
恩田 二十四時間リアルタイムという部分に、すべての話が隷属させられているのが引っ掛かって、どうしても乗れない。三回か四回チャレンジしましたが、挫折してしまいました。
松浦 シーズン1は一応観た気がしますが、シーズン2の途中で飽きてしまった。ドラマの水準がだんだんと上がっている感触はあるんですけどね。でも、二十四時間をリアルタイムで追っていくという設定はまあ悪くないと思う。しかし、チームのブレインストーミングでああだこうだと議論しながら筋を作っていったさまがありありとわかってしまう。
恩田 物語がコンテンツになっているんですよね。だからプロットがすべてになってしまっていて、ストーリーはどこに、という感じ。“おはなしの神様”を失っているのではないかと。
松浦 プロットというのは集合知によって作れるものです。チームでアイデアを出し合って揉んでいけば、どんどん複雑で精錬されたものができていくかもしれない。けれど、物語にはストーリーテラーが一気に語っていく、その現場の迫力というか、語りの動的なうねりのようなものがいちばん大切でしょう。
恩田 そのほうがドライブ感がありますよね。だから、Chat GTPに“おはなしの神様”はいるんだろうか、と考えてしまうわけなんです。
松浦 Chat GTPでプロットを作って、それを今度は一人の人間が自分の肉体と魂のすべてを懸けて一気に語り直す。見事なストーリーテリングのわざを発揮しつつ。そういう作品の場合はじゃあどうかということになると、微妙ですよね。そういうのもAIに頼って不正をはたらいたということになるのかどうか。この先、そういったデリケートなグレーゾーンがいろんな形で広がっていくような気がします。
恩田 でもChat GTPを使うにしても、元ネタとなるテキストデータを読み込ませないと出てこないわけだから、やはり人間も読まないと書けないというのはありますね。
松浦 それは本当にそう思います。

(2023・5・16 神保町にて)

「すばる」2023年8月号転載

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