勝頼の威信は失墜し、武田領内の重臣や国衆たちの勝頼離れが加速化

なお、高天神城を見殺しにしたことで勝頼の威信は失墜し、武田領内の重臣や国衆たちの勝頼離れが加速化する。

こうしたなか、翌天正十年(一五八二)二月一日、勝頼の重臣で一門衆・木曽義昌(妻は信玄の娘)が織田方に内通してきたのだ。そこで信長は、二日後の二月三日、嫡男の信忠に武田領への進撃を命じた。信忠は配下の森長可と団平八を先鋒として木曽口から侵攻させ、十二日、自身も武田攻めの総大将として岐阜城を発し、十六日に岩村口から武田領へ入った。

信長の出陣命令は同じく二月三日、徳川家にももたらされた。そこで家康は駿河口から攻め込むことになった。

なお、信長と同盟関係にあった北条氏政にも、二月十九日に信長から出陣要請がなされた。こうして各地から武田領に織田方の軍勢が侵攻していった。武田征伐の始まりである。

二月十八日、家康は浜松城を出立して同日中に掛川城に入り、さらに二十日に大井川を越えて駿河国に侵入、田中城を落とし、二十一日に駿河府中まで進んだ。

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梅雪の裏切りのおかげで、徳川軍はスムーズに甲斐国の八代郡市川へ

同時に家康は、武田一門衆の穴山梅雪(信玄の甥で、正室は信玄の娘)に接触を始めた。梅雪は巨摩郡下山を拠点にしていたが、勝頼の時代に駿河国へ移って江尻城主となり、数年間にわたって最前線で家康と対峙してきた。

だが、信長が総力を結集して襲来してきたので、梅雪は武田の将来を見限り、三月二日、家康の誘降に応じた。梅雪の服属により、その後はほとんど抵抗を受けることなく、徳川軍は興津、「まくさ」を経て三月十日、ついに甲斐国の八代郡市川に入ることができた。

いっぽうの信忠軍だが、武田の諸城は戦わずして開城し、小笠原信嶺などの重臣も次々と降伏を申し出てきた。勝頼の弟・仁科盛信が守る信濃国高遠城は抵抗したが、信忠自身が城の塀際に取り付き、柵を引き破って塀上に上がり、「いっせいに乗り入れよ」と下知したこともあり、三月二日、堅城の高遠城は一日で陥落した。信忠は休むことなく進軍し、翌日、諏訪に到ると、各地に放火。さらに勝頼の籠もる韮崎の新府城を目指した。

ようやく信長が安土城を出立したのは、それから二日後の三月五日のことであった。

信長は、信忠の猛進撃に危惧を覚え、信忠を支援する重臣の滝川一益や河尻秀隆に対し「信忠は若いので、粉骨して名を上げようと気負い立っている。軽率な行動だ。俺が到着するまで先を急がぬよう申し聞かせよ」と命じた。

だが、信忠は父の命を無視し、進撃速度を緩めず七日には上諏訪から甲斐に入ってしまう。そして武田一族や重臣たちの屋敷を襲撃し、隠れ潜んでいる者たちを引きずり出しては成敗していった。