信長から贈られた名刀
戦後、長篠城を守り抜いた貞昌は、信長・家康の二人から戦功を称えられた。信長は偏諱(へんき)を与え信昌(のぶまさ)と名を改めさせた。また、福岡一文字の太刀・長篠一文字(国宝)を下賜(かし)した。そして、家康は備前長船派(びぜんおさふねは)の刀工・長光(ながみつ)の名刀・大般若長光(だいはんにゃながみつ)を与えた。
大般若長光はもと足利(あしかが)将軍家に伝来した重宝で、室町時代に六○○貫(※現在の価値でおよそ6,000千万円)の高値がついた。仏教の経典・大般若経(大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう)の略)が六○○巻だったことから大般若長光という号になったという。
ところが、この名刀は第十三代将軍・足利義輝(よしてる)が三好(みよし)三人衆らに殺害されたとき、三好政康(みよしまさやす)または松永久秀(まつながひさひで)に分捕られてしまった。
その後、信長の手に渡ったが、信長は姉川の合戦で自ら援軍を率いて参戦した家康に感謝し、戦後、この大般若長光を贈った。つまり、家康は盟友・信長から贈られた名刀を惜しげもなく家臣に下賜したわけである。そのくらい貞昌の戦功は、家康にとって大きなものだったのだろう。
貞昌改め信昌に下賜された大般若長光は、子の忠明(ただあき)に引き継がれた。その後、忠明は家康の養子となって「松平」姓を与えられ、江戸時代、大般若長光は武蔵国忍藩(むさしのくにおしはん)(埼玉県行田市)松平家に伝来した。
そして、大正時代になって大般若長光は松平家から売りに出された。これを刀剣蒐集家(しゅうしゅうか)として知られた貴族院議員の伊東巳代治(いとうみよじ)伯爵が購入。伊東は明治から昭和にかけて活躍した官僚・政治家で、伊藤博文のもとで大日本帝国憲法の調査・起草にたずさわった。
伊東は長くこの名刀を愛蔵したが、昭和十六(1941)年、帝室博物館(のちの東京国立博物館)が買い上げ、現在も同館に所蔵されている。
文/刀剣ファン編集部
長篠合戦図屏風(模本)/国立博物館所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-7104?locale=ja
大般若長光/国立博物館所蔵品統合検索システム
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